劉備玄徳が母親思いだったというのは本当なのか調べてみた

劉備玄徳の母

・劉備母子のエピソード

小説やゲーム、映画など「三国志」は長年、根強い大人気コンテンツとなっている。

「三国志」といえば「劉備玄徳とその母の親子愛」のエピソードが強く印象に残っているという人もいるのではないだろうか。

貧しき青年劉備玄徳は、当時高価だったお茶を、愛する母に買ってやるため、必死でお金を貯める。苦労の果てに劉備はほんの少しのお茶を手に入れるがその帰途、そのお茶と、父祖伝来の剣を、賊に奪われてしまう。幸いにして武勇に長けたある男の助力で、剣とお茶をとりかえしてもらうが、劉備はその男に、礼として、父祖伝来の剣を渡してしまう。そこまでして守りぬいたお茶であったが、劉備の母は、それが父祖伝来の剣を犠牲にしてもたらされたものであることを知ると、そのお茶を川に投げ捨て、劉備に「漢の帝王の子孫たることを忘れてはいけない、今の生活に甘んじるな」と説教する。

母を思う息子の愛、息子を思う母の愛は、実に感動的なものである。しかし、このエピソードは本によっては掲載されていないという話を聞いたことがある。いったいどういうことなのか、調べてみた。

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・正史・演義における劉備玄徳の母

本来、「三国志」とは、陳寿という人物によって3世紀に作られた「歴史書」。漫画や小説やゲームなど、この『正史 三国志』がなかったら生まれていなかったのである。

 

まずはこの『正史 三国志』からチェックしてみよう。

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※正史

「劉備は幼くして父を失い、母とともにわらじを売り、むしろを編み、仕事とした」

15歳の時、母は劉備を遊学させた」

『正史 三国志』で劉備玄徳と母の関係が書かれているのは、この部分だけである。「生まれた日は違っても」というフレーズで有名な「桃園の誓い」すら記されていない。

実は「桃園の誓い」が出てくるのは、明の時代、羅貫中によって書かれた『三国志演義』が最初である。当時の講談や民間説話を取り込みながら書かれた歴史書と比べると、大いに脚色がされている。

 

三国志演義』の第1回。

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※演義

「同年同月同日に生まれることを求めず、ただ同年同月同日に死ぬことだけを願う」

これこそ「桃園の誓い」。

一方、劉備玄徳の母は、というと、

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※演義2

「劉備は幼くして父を失い、母に孝を尽くし、家は貧しかったが、わらじを売り、むしろを編み、仕事とした」

とあり、『正史』の記述との違いは「孝」という表現が入ったところくらいである。

 

・江戸時代の翻訳

江戸時代に出された、日本で初めての『三国志演義』の翻訳であるとされる『通俗三国志』を見てみよう。

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※通俗

内容が変化しているのがみてとれる。 「玄徳の母を拝して」という記述はあきらかに『正史』にも『演義』にもなかったものである。

この『通俗三国志』は湖南文山によるものである。湖南文山が、なぜここにこのような記述を入れたのかは知れないが、この一文の挿入はこの後、日本における劉備玄徳のイメージを作るのに、決定的な役割を果たすこととなった。

 

・吉川英治の小説『三国志』

湖南文山に続いて、明治時代に久保天随という人物が同じく『三国志演義』の翻訳である『新訳演義三国志』を出しているが、日本における三国志普及に最大の役割を果たしたのは、なんといっても吉川英治による小説『三国志であろう。

「お前が、わしを歓ばせるつもりで、はるばる苦労して持っておいでた茶を、河へ捨ててしもうた母の心がわかりますか」

「……わかりません。おっ母さん、玄徳は愚鈍です。どこが悪い、なにが気にいらぬと、叱って下さい。仰っしゃって下さい」

「いいえ!」

 母は、つよく頭を振り、

「勘ちがいをおしでない。母は自分の気ままから叱るのではありません。――大事な剣を人手に渡すようなお前を育ててきたことを、わたしは母として、ご先祖にも、死んだお父さんにも、済まなく思うたからです」

まさに、かの有名なエピソードである。

吉川英治は、”江戸時代の『通俗三国志』と、明治時代の新訳演義三国志』の長所を取り入れつつ、自己流の創作を加えて、小説『三国志』を執筆した”と語っている。劉備玄徳の母をキャラクター化したのも、「お茶を川に捨てる」というインパクトあるエピソードも、吉川英治の創作だったのである。

 

「桃園の誓い」もみてみよう。

「われらここにあるの三名。同年同月同日に生まるるを希わず、願わくば同年同月同日に死なん」と、呶鳴った。

張飛は、牛の如く飲み、馬のごとく喰ってから、「そうそう。ここの席に、劉母公がいないという法はない。われわれ三人、兄弟の杯をしたからには、俺にとっても、尊敬すべきおっ母さんだ。――ひとつおっ母さんをこれへ連れてきて、乾杯しなおそう」急に、そんなことを云いだすと、張飛はふらふら母屋のほうへ馳けて行った。そしてやがて、劉母公を、無理に、自分の背中へ負って、ひょろひょろ戻ってきた。

「母を拝して」というほんの少しの記述を、ここまで膨らませられるとは、さすが国民的大作家。

日本人受けする「親子愛エピソード」を物語の冒頭に配置した効果もあり、吉川英治版『三国志』は大ヒットし、その後も現在に至るまで、その影響はとどまるところを知らない。

 

・その後の影響

吉川『三国志』の影響を強く受けた横山光輝の漫画が同じ設定を踏襲している。物語冒頭には、お茶のエピソードを含めて、母子の深い愛情の物語が描かれている。

この漫画もまた大ヒット作となり、この作品で『三国志』を知った人も多いことから、「劉備玄徳は母親思い」というイメージはかなり強く日本で定着することになった。

 

そして、人気だったNHK人形劇 『三国志』

こちらも本来は、『三国志演義』立間祥介訳を原作としているのに、玄徳の母が登場する。

これには人形を作った川本喜八郎が、吉川英治の強い影響を受けていることが作用していると推測される。

渋谷駅ヒカリエの『川本喜八郎人形ギャラリー』の解説にこんな記述を見つけた。

同じ吉川英治の作品でも、 川本が時期的に早くから取り組んだのは、 『三国志』でなく『新平家』であった。 『三国志』終了後19849月頃から、 映像化のあてもないまま、 主要な人物の首(かしら)を作り始めた。

この記述から川本喜八郎自身は『三国志演義』ではなく、吉川英治『三国志』の人形を作っている、という意図がうかがえる。

 

NHK人形劇 三国志』のDVDを確認してみたところ、劉備の母は、人形劇全68回の53話「名将の死」で亡くなっていた。

劉備が漢中王になる直前まで生き続けたということになる。演義でいうと全120回中の70回辺りまで生きたことになる。

それまでの間、劉備の母は物語の要所に登場し、昔と変わらず、たくましく、むしろを織り続けて、劉備の精神的支えとなっていく。

実は吉川『三国志』ですら、母の死去は、はるかもっと前に登場する。劉備が「徐州にいたころ、世を去った」とされるが、これは吉川英治歴史時代文庫の全8巻の3巻に記載されている。

吉川英治版以上に、この人形劇での劉備の母の存在感は強烈である。

この人形劇も大人気作となったため、「劉備玄徳は母親思い」というイメージを定着させるのにかなり貢献している。

 

・まとめ

「劉備玄徳は母親思い」というイメージは主に吉川英治によって作られ、その影響を受けた後の人々によってさらに増幅されたということがわかった。

しかし、たとえこれが創作であったとしても、人々から支持されるものでなければ、こんなにもインパクトを残すことはなかっただろう。

「劉備玄徳は母親思い」というイメージの本当の創作者は、吉川英治の描いた玄徳像に感動した日本の読者一人一人であったともいえるかもしれない。

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武蔵大納言

生まれは平安時代。時空の割れ目に紛れ込んでしまったことにより、平成の世に紛れ込む。塾や予備校で古文漢文を教えながら、現代日本語を習得。現在は塾・予備校での指導の傍ら、古典文学や歴史についてのライターとしても活動している。 Twitterアカウント @musasidainagon
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