1786年12月20日、アメリカ・コネチカット州ニューロンドンの保安官は、わずか12歳の少女を芝生に設置された絞首台へと連行した。
少女の名は、ハンナ・オクイシュ。
ハンナは、同年7月に発生した殺人事件の犯人として有罪判決を受けていた。
被害者は、裕福な農場の娘で6歳の少女ユーニス・ボールズで、ハンナが彼女を殴打し、首を絞めて殺害したとされている。
ハンナはピクォート族に属するネイティブアメリカンで、アメリカ史上最年少で死刑を執行された女性犯罪者となったのである。
目次
イチゴを盗み、告げ口を恐れて殺害
死刑が執行される5ヶ月前の1786年7月21日、コネチカット州ニューロンドンからノーウィッチに通じる道路脇で、ユーニスの遺体が発見された。
警察の捜査により、12歳のネイティブアメリカン少女、ハンナ・オクイッシュが事件に関与している疑いが浮上した。
最初の取り調べで、ハンナは「現場近くで4人の少年を見た」と証言し、自身の容疑を否定した。
しかし、警察の捜査では少年たちの存在自体が確認されず、ハンナの証言の信憑性が疑われることとなった。
翌日、ハンナは再び取り調べを受け、殺害されたユーニスの家に連れて行かれる。
ユーニスの遺体の前に立たされた彼女は泣き崩れて犯行を自供し、「もうこんなことは二度としない。誰も傷つけない」と語ったのだった。
事件の5週間前、農場の娘ユーニスと、その家の使用人であったハンナは、畑にイチゴ狩りに出掛けていた。
当時の農場の子どもたちにとってイチゴを摘むことは、大事な仕事であった。
収穫されたイチゴは出荷されるだけでなく、家庭ではパイやジャム、ゼリーに加工されるため、籠いっぱいに摘んだ者には家主からご褒美やご馳走が振る舞われたのだった。
ハンナは雇主からのご褒美に目がくらみ、6歳のユーニスの籠から大量のイチゴを奪っていたのである。
これに気づいたユーニスは「母親に告げ口する」とハンナを脅し、二人の間で口論が発生した。
使用人として行き場のないハンナにとって、雇主への告げ口は死活問題であった。
そのため、6歳のユーニスに対して復讐心を抱くようになったのだという。
事件当日、学校へ向かうユーニスを見つけたハンナは、「プレゼントをあげる」と声をかけて彼女を誘い出した。
その後、ハンナはユーニスを殴打し、首を絞めて殺害した。
さらに、「壁が崩れて死んだように見せかけるため遺体に石を乗せた」と供述した。
こうして12歳のハンナは、6歳のユーニスへの殺人容疑で逮捕・起訴されるに至ったのだった。
ハンナの悲惨な生い立ち
ハンナは1774年3月、コネチカット州ニューロンドンでピクォート族のネイティブアメリカンとして生まれた。
母親はアルコール依存症であり、ハンナはネグレクトの中で育った。知的障害の可能性も指摘されている。
ハンナは6歳のとき、兄とともに少女を襲い、金のネックレスや服を奪おうとしたことがあった。
彼らは少女を殴り殺しかけたが、少女は隙を見て逃げ出して家に戻ったという。
事件後、町の有力者たちが調査に乗り出し、兄妹は拘束された。
母親はハンナを引き取る意志を示さず、ニューロンドン近郊に置き去りにした。
その後も母親が戻らなかったため、ハンナは地元の裕福な農家ボールズ家に使用人として引き取られることになる。
この家には、後に彼女が殺害することになる6歳の娘、ユーニス・ボールズがいたのだった。
有罪判決後、48時間以内に絞首刑
1786年10月に行われた裁判では、ハンナが嘘や窃盗を繰り返し、近所の子供たちに恐れられていたことが証言された。
彼女は12歳という年齢以上のずる賢さを持ち合わせていたが、適切な教育や性格矯正を受ける機会は与えられなかった。
ハンナの悲惨な生い立ちと残忍な性格に、裁判長や傍聴人が涙を流すなか、彼女は終始平静で冷静な態度を貫いていたと伝えられている。
ハンナは、弁護士の指示に従い「無罪」を主張し続けた。
彼女の年齢や知的障害の可能性が考慮される場面もあったものの、結局それが判決に影響を与えることはなかった。
1786年12月、ハンナは最終的に殺人罪で有罪判決を受け、絞首刑を宣告された。
裁判官は、以下のような判決文を読んだ。
「彼女の年齢を理由に死刑を回避すれば、子どもたちが罰を恐れることなく犯罪に手を染めるようになり、社会に深刻な影響を与える可能性がある。」
当時の法律では、犯人の年齢や障害が軽減理由とされることは、ほとんどなかったのである。
また、1752年に制定された法律により、殺人罪で有罪となった場合、48時間以内に絞首刑が執行されることが義務付けられており、この法律がハンナにも適用されたのだった。
地元で有能と評判だった牧師のヘンリー・チャニングは、拘置所のハンナを訪ね、「魂が救われるよう悔い改めなさい」と繰り返し諭したという。
死の間際に牧師から生い立ちを非難されたハンナ
法廷では冷静さを保っていたハンナも、処刑の日が近づくにつれ恐怖心を隠せなくなっていた。
面会者から余命について尋ねられると、彼女は動揺しながら残りの時間を答えたとされる。
処刑前日、ハンナは一日中涙を流し続け、錯乱した様子を見せていたという。
そして翌日の12月20日、ニューロンドン集会所の芝生に設置された絞首台に上がったハンナは、極度に怯えていた。
目撃者は、「彼女は誰かに助けを求めているように見えた」と語っている。
多くの群衆が見守る中、牧師のヘンリー・チャニングは『神は、親と主人としての義務を戒める』と題した説教を1時間にわたって行った。
そして最後に、ハンナに向けて死後の世界を示唆し、厳しい言葉で説教を行った。
「ハンナ、あなたは殺人罪で起訴され、有罪とされた。
社会の安全を守るため、悪質な罪には相応の罰が必要であり、死刑はその正当な結果である。
あなたの年齢を理由に死刑を免れることは、子どもが犯罪を犯しても罰を受けないという誤解を生み、社会に深刻な影響を与えるだろう。
しかし、ここでの裁きが終わりではない。
死後、神の前でさらに厳粛な裁きを受けることになる。
その法廷では、亡くなった子どもユーニスが証人として立つだろう。」
ハンナは処刑される直前、絞首刑場までやさしく手を引いてくれた保安官に感謝の言葉を伝えたという。
こうして、12歳のハンナは短い生涯を閉じたのだった。
彼女の遺体はコネチカット州のレッドヤード・センター墓地に埋葬されたが、墓標は立てられなかった。
死後220年、未成年犯罪者の死刑廃止
ハンナが処刑されてから219年後の2005年、米国最高裁判所は未成年時に犯罪を犯した者への死刑を廃止した。
この歴史的な決定を受け、2020年3月、人種差別の撤廃と人種的平等の推進を目的として活動する『NAACP』が専門家たちと協力し、ハンナの事件を再調査するグループを結成した。
このグループは、ハンナが本当に有罪だったのか、また公正な裁判を受けたのかを判断するため、証拠の再評価を進めている。
『NAACP』は、結論を出すのは難しい可能性が高いとしながらも、
「もし証拠が彼女の無罪、または不公正な裁判を示すものであれば、コネチカット州議会に無罪判決の勧告を行う可能性がある。」
と述べている。
さらに、グループは、ハンナの人種、年齢、障害、性別が、有罪判決や刑罰に大きな影響を与えた可能性も指摘している。
彼らは再調査を進めるため、ハンナとユーニスの親族に連絡を取る努力を続けている。
作家が「人種差別による不当処刑」を指摘
2023年、Webサイト『OddFeed』において、作家のジェシカ・スースが、ハンナの自白の信憑性に疑問を投げかける記事を寄稿した。
ジェシカは記事の中で、「拘置所でハンナと面会した牧師ヘンリーが、ハンナの自白を裏づける証言を残していない点」を指摘している。
また、「ハンナが6年間仕えていた雇主、ユーニスの母親から何の苦情もなかった」という事実を挙げ、ハンナが暴力的な犯罪者であるという主張にも疑念を呈した。
ハンナの殺害動機の弱さについても批判し、「ユーニスが、ハンナがイチゴを盗んだことを実際には告げ口していなかったこと」「ユーニスがハンナと2人きりになることを避けていた可能性」にも着目している。
さらに、「ハンナがユーニスをプレゼントで誘い出した」という説についても「奇妙」とし、それが状況証拠に基づく不確かな主張に過ぎない点を強調した。
ジェシカの記事は、このように締め括られている。
「ハンナの処刑自体が人種差別から生まれた犯罪である可能性があり、彼女が本当に罪を犯したかどうかは、おそらく永遠に分からないだろう。」
18世紀、性別や年齢、人種、障害に対する差別が当たり前の社会風潮の中で、12歳という若さで絞首刑に処されたハンナ・オクイシュ。
約240年後、自身の有罪判決や処刑の是非について議論する人々が存在している現状を、彼女はどう感じるだろうか。
参考 :
ヘンリー・チャニング牧師が行った説教『神は親に主人としての義務を戒める』
『God admonishing his people of their duty, as parents and masters. A sermon, preached at New-London, December 20th, 1786. Occasioned by the execution of Hannah Ocuish, a mulatto girl』Henry Channing (著)
『1786 : Hannah Ocuish, age 12 | Executed Today』
『Hannah Ocuish and Eunice Bolles | The Bulletin』
文 / 藤城奈々 校正 / 草の実堂編集部
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