定期にやってくる「空っぽ」になる時間。
また最近「空っぽ」になっているので、言葉が出ない病になっております。
「言葉が出ない病になっている」という言葉は出ていますが(笑)
(ここ、試験に出ます^^)
Heart of Healing『エディプスシークレットプログラム』の詳しい説明をしたいのだけど、全然できなくて。
「来たらわかるから来て〜♡」という有無を言わさぬお誘いの仕方しかできなくて、なんだか悔しいしもどかしいのだけど、ほんとはそういうことなのですよね。
私自身がもともとは「来たらわかるから来て♡」っていう誘われ方をされるのが好きではなくて。
「どういうことをするのか、どういう効果があって、最終的にどこに着地するのか」を詳しく教えてもらってから行くかどうか検討したいというタイプなので、「来たらわかるから来て♡」ってなっている今の自分の状態が、ちょっと居心地が悪くなっています。
「何をするのか、どういう状態になるのか、どういう効果があって最終的にどこに着地するのかを知りたがる」ということ自体が、自己防衛であり偽りの男性性であり、
自分の今の度量を超えたすばらしいものを受け取れなくさせてしまうことになってしまうので、言えないし言えたとしても言わないほうがいいという側面があります。
だけど逆にいうと、詳しく説明されなくてもどこに着地するのかわからなくても、「なんとなくピンとくるから行く」という飛び込む勇気のある参加者さんが最近増えていて、私のような思考理屈ビビり型、保険が欲しい的な人が減っているので、私としてはイベント、プログラムを提供しやすくなっていますし、私自身も在り方を変えるタイミングにきているのだと思います。
私のようなもともと思考理屈ビビり型、保険が欲しいタイプ、答えを人に教えて欲しいタイプの人というのは、提供する側としては、たいへんめんどうくさいのですね。
「自分を信頼して。大丈夫だから♡」としか言えないのです。
ということが、ここ一年、提供する側をみっちりやってわかったことだったりします。
今まで自分が参加してきたイベントやセミナー、プログラムで、私に教えてくださったワーカーやコーチやトレーナーや先生方たちは、たいへん苦労なさっただろうなと思います。
「自分がいる場所を勘違いしている、未来への視線の向け先をズラしたほうがいい」って言いたかっただろうし、振り返れば何度も言われていたことが思い出されるのです。
でも、渦中にいるとわからない。
自分が何をまちがえているのか、どこに立っているのかが、わからない。
さらに受ける態度が悪かったなと反省すること山の如し。
迷路にハマっている自分を助け出してほしいのだけど、UFOキャッチャーのアームのように襟首つかんでポケットに連れていかれそうになると抵抗してしまうのですね。
だけど、UFOキャッチャーのアームは確実に自分にとって正しい方に連れていってくれていることに、あとから気づいたりするのです。
UFOキャッチャーのなかのキャラクターたちは、神の手(アーム)によってポケットに運ばれ、それぞれの神のもとで可愛がられることが魂の目的なのに、自分だけの力でポケットに行けると思い込んでいる、あるいは本来の目的を忘れてずっとUFOキャッチャーのなかで、ぬくぬく過ごしていたりする。
ブラ〜ンと全身の力を抜いて、神のアームに首根っこつかまれて、行くべき場所に行ったほうが断然ラクちんで幸せで、それこそが生まれてきた目的なのに、なぜだかアームにつかまれることに抵抗してしまうのが、私たちです。
私自分がそうだったからこそ、懐疑的だったりワークに抵抗する傾向にある参加者さんに出会うと、その人の人生に何が起きているのか、人と普段どのように関わっているのか、心の中がどうなってるのかが手に取るようにわかります。
わかるけれど、やはり私はイベントを通じて最短でラクな道にお連れしたいので、自分がコーチにされたことと同じように、ご本人にとってはちょっとしんどいアプローチをしたりします。
「そこんとこを超えないとラクにはならないよ」という境界線があるのです。
境界線を超えるときには、お互いに痛い思いをしないといけないこともあります。
これは「癒着をしない」「癒着を切る」ということでもあります。
癒着は、「半永久的に取れないトリモチ」「終わりのないジェットコースター」「終わりのないお化け屋敷」にたとえられます。
癒着を切られて、目覚める方もいるし、抵抗して再び眠りに入る方もいます。
ほんとのところどちらでもOKなのですが、「せっかく自分のお金と時間と体を使って参加してくださっているのだから、その分、受け取って帰っていただきたい、それが回り回って自分のためになるよ」というのが提供する側の正直な気持ちだったりします。
提供する側というのは、ある段階において、参加者さんに対する個人的感情はどうでもよくて、ご本人の成長と変化変容にしか興味がない、というのが本当のところだったりします。
プロセスを提供していると、「転移」という現象が起こることがあります。
過去に体験した誰かとの関係。
親やきょうだいや友だち、先生を提供者の中に見てしまい、その関係性を提供者とのあいだで再現してしまう。
ポジティプな再現もあれば、ネガティブな再現もあります。
一番多い転移は母親とのネガティブな関係性の再現。
誰もがたいてい「ほんとうは母親にこんなふうに愛されたかった、こうして欲しかった、親としてこうあるべきだった」という気持ちが残っているので、それを提供者に無自覚に求め、そのとおりに振る舞われないと怒りだしたり引きこもったりしてしまう。
もちろん、これは無自覚に起こることで、ご本人のせいではありません。
そこでただ転移があることに気づくことがとても大切なのです。
転移が起こっていれば、それを伝え、お互いにとって参加者さんの人生にとって最適なワークを提供することで乗り越える、という手段を取るケースがあります。
転移があることを認めないとパターンを乗り越えるのは難しいので、そのあたりは「素直さ」が問われることになります。
(なかには、本人が自然と気づくまであえて転移をさせるだけして、抜けるのを待つという慈悲にあふれた提供者もいます。)
これらは、私自身が無自覚にやってきたからこそ分かることなのです。
どれだけワーカーやトレーナーや先生を無自覚に攻撃してきたか。
能動的に攻撃していなくても心のなかで思っていることは全部バレているし、批判も全部伝わっている。
それでも提供する側は攻撃をスルーして私の成長、変化変容のみを願って見守ってくれていたのでした。
だけど、受ける側はそれがわからなくて、冷たく突き放されたように感じたり、見捨てられたように感じたり、誰かと比べて低い評価をされたように感じたり、嫌われたように感じてしまう。
あるいはそれらを体験したくないために、あえて自分から遠ざかってみたりする。
それらはすべて誤解なのだけど、誤解もひっくるめて見守られていたりするのです。
ざっくりいうと、親との関係の不調和、神との関係の不調和が、相手との関係の不調和としてあらわれます。
これはプライベートな場でも同じことで、プライベートなだけにさらにわかりにくくなるし相手のせいにしやすくなる。
だからこそ、安全な場であぶり出して抜けていこうねというのが、さまざまなイベントやプログラム開催の主旨だったりします。
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はて。
私自身、「空っぽになって、言葉が出ない病になっている」と言いながら、気づけばしっかり言葉が出ていました。
言葉が出てみて初めて、伝えることの輪郭が見えてくる。
言葉が出なくてもどかしいときというのは、「自分」が意図する何かを言おうとしていて、それにそぐわないからもどかしさを感じるのかもしれません。
必要な伝えるべきこと、やるべきことというのは、「自分」の意図や意思とはべつの場所にある。
そして「自分」が想像していたものよりもはるかに本質的で、壮大なメッセージが込められていたりする。
今の私からすると、思わぬ道を通って、思わぬやり方で着地した♡ という感覚です。
これは、この文章書く前の「私」には、まったくわからなかったことなのです。
これが、目覚めの側面です。
「自分」がどくこと。
自分が空っぽになること。
自分を自分以外のものに委ねること。
そうなることで、自分の想像や制限をはるかに超えた現実が目の前にあらわれる。
「はて。」の前に書かれていることが、じつは本当には大切なことではないということです。(大切だけど)
それが人生というものの醍醐味かもしれまん。
このことを、『エディプス・シークレット3ヶ月プログラム〜人生の流れを変えて幸せと豊かさを受け取る体質になる秘訣〜』の講義でお伝えします。
「目覚め」には、さまざまな段階があります。
段階を追って目覚めていくことにより、少しずつ確実に本質と繋がり、より魂の目的に沿った人生を生きられるようになります。
あるいは、今世の魂の目的すら超えてしまうことも少なくありません。
『エディプス・シークレット』第1回、第3回の講義のあとに開催しますので、お時間がある方、興味のある方は、ぜひ連続でご参加ください。
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