東国の脅威
【※紀元前260年の戦国七雄】
紀元前230年、隣国の「韓(かん)」を攻め滅ぼした秦は、その2年後に北の大国「趙(ちょう)」もその支配下に収めた。
征服後、始皇帝は自国の制度をすぐに新たな領地にも導入し、同じ制度のもとで支配することにより、合理的な統治を行うようになる。貨幣も東方の国々ではそれぞれが異なっていたため、秦が統一貨幣である「半両銭(はんりょうせん)」を導入、
これが後世における統一貨幣の原型となってゆく。
【※半両銭】
一方で北方の「燕(えん)」は、趙の滅亡により秦と国境を接することになり、脅威を覚えた燕は、秦に暗殺者を送り込んだのである。暗殺者の名は「荊軻(けいか)」。荊軻は、燕の土地を秦に献上するといって秦の宮廷に入り込み、始皇帝の前で地図が描かれた巻物を広げる。しかし、最後に巻物から現れたのは刃物であった。
攻防の末、始皇帝は自ら荊軻を斬りつけることで難を逃れることとなる。
この暗殺未遂事件は、秦に燕と戦う大義名分を与え、翌年、秦が燕の都を攻略した。
中国初の統一国家 秦 誕生
中国南部の湖南省、近年ここで秦の時代を知る37,000点もの文書が発見された。
木簡などの文書は、その多くが中央との連絡が記されており、秦が領土を拡大しつつ、いかに緻密な統治を行っていたのかを物語っている。記録に残すことで、地方と中央で情報の誤差を抑えていたのだ。
燕を滅ぼした秦は、残る4ヶ国に怒涛のような攻略を仕掛けていった。南方の大国「楚(そ)」に対しては、将軍・王翦(おうせん)に秦の全兵力に近い60万もの兵を預け、紀元前223年、楚は始皇帝の期待に応えた王翦により滅亡する。
そして、紀元前221年、最後の一国である「斉(さい)」を滅ぼし、秦は中国統一を果たした。群雄割拠の春秋時代は終焉を迎え、秦のもとで初めて中国は強大な統一国家となったのだ。始皇帝本人も、それまでは「政(せい)」と名乗っていたが、この新王国に相応しい名前を考えていた。
それこそが「光り輝く天下の統治者」を意味する「皇帝」であり、その始まりである政は「始皇帝」となったのだ。
中国発の皇帝の誕生であった。その後も始皇帝は道路網の建設、中央集権のための郡県制の制定など、さらに様々な統一政策を推し進め、文字や度量衡の統一により、秦の支配は急速にまとまっていったのである。
最後に
秦による中国統一により、中国統一が不可能ではないとわかっていたからこそ、後の三国時代でも「中国はひとつ」という考えの下で各国は戦えた。非情な印象のある始皇帝の振舞いや考えは、ここまではすべて計算されたものであり、それが合理的な統治を生み出したのである。
そして、秦は英語では「CHINE」と書き、これが「CHINA(チャイナ)」の語源となり今も残っているのだ。
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すいません。楚が滅亡した年って紀元前233年ではなくて紀元前223年かと…
ご指摘ありがとうございます。
修正させていただきましたm(_ _)m