中国史

楊貴妃の悲劇的な最後【傾国の美女】

楊貴妃の悲劇的な最後【傾国の美女】

※宝山遼墓の壁画「楊貴妃教鸚鵡頌経図」。Wikipediaより引用

楊貴妃(719年~756年)は、中国の王朝第九代皇帝・玄宗の妃です。

絶世の美女として知られ、その美貌は、エジプト女王・クレオパトラ、スパルタ王妃・ヘレネと共に「世界三大美女」として称えられています。一方で、その美しさを武器に国を混乱に導いた悪女としても語られます。

称賛と悪評、楊貴妃とは一体どんな人物だったのか調べてみました。

楊貴妃の幼少期

楊貴妃の悲劇的な最後【傾国の美女】

楊貴妃の「」は姓つまり一族の名字、「貴妃」は皇帝の妃達に与えられる位の一つです。正式な名前は「楊 玉環(よう ぎょくかん)」と言い、玉環は「玉のような美しさ」を意味します。

楊貴妃こと楊玉環は、719年頃に蜀地方(現在の四川省辺り)で生まれました。父親は蜀で下級官吏をしていたのですが、玉環が十歳頃に亡くなります。

父の死後、玉環は蜀を離れ、河南府(現在の河南省)の洛陽に住む叔父の元へ養女として引き取られます。叔父は洛陽で父と同じく官吏をしており、上流とは言えませんが、それなりに裕福な少女時代を送ることができました。歌や詩、舞踊、楽器など、当時の女性としての教養をしっかりと身につけました。中でも舞踊と琵琶を得意とし、後世にも語り継がれています。

皇帝との出会い

楊貴妃の悲劇的な最後【傾国の美女】

※「唐玄宗」。Wikipediaより引用

洛陽は当時の首都・長安に近く、美少女の噂は王宮にも届いたようです。

玉環が14歳の頃、第十八皇子・寿王の邸に上がります。持ち前の美貌と才智で寿王の側近らに見出されると、17歳で寿王と結婚、寿王妃となります。

寿王と結婚して間もなく、皇帝の寵妃である武恵妃が病死します。新たな寵妃を求めた皇帝・玄宗に見初められたのが、玉環でした。しかし、玉環は34歳も年下で息子の妃。端的に言うと、玉環と玄宗は嫁と舅の関係だったのです。

武恵妃は寿王の生母でもあったため、寿王にとっては、母と妻の二人を失うことになります。それでも皇帝の命には逆らうことが出来ず、寿王は玉環を玄宗の元へ送ります。

関係が始まった当初、玉環と寿王は離縁しておらず、いわゆる不倫状態でした。ですが、この関係は公然の秘密として知られ、周囲の者は(もちろん寿王も)黙認していました。

出会いから約三年、玄宗は玉環を出家させ、寿王と正式に別れさせます。玉環を出家させたのは、いくら皇帝と言えども「息子の妻を寝取る」という行為は、当時でもかなりのスキャンダルだったようで、それを誤魔化すためでした。

ほとぼりが冷めた頃を見計らって、玉環は後宮に召されました。入宮の翌年、玉環は27歳で貴妃に冊立されます。

貴妃は、妃のトップである皇后に次ぐ位でしたが、当時玄宗に皇后がいなかったため、事実上後宮の頂点となりました。また玄宗の寵愛も深かったことで、貴妃というよりは皇后と等しい扱いを受け、名実ともにトップに立ちました。

傾国の美女

楊貴妃といえば、なんと言っても「傾国の美女」という異名です。

玄宗は、若い頃は荒廃していた王朝を立て直した名君として名を馳せ、唐王朝の全盛期を築いていました。ところが、老年期に入り楊貴妃と出会ってからは、その美貌と色香に溺れ、政務は宰相に任せきりで、遊興に耽るようになります。

特に内政の腐敗は凄まじく、楊貴妃の身内を次々と優遇します。男子のほとんどが高位の要職に就き、女子を含む一族の多くが皇族と姻戚関係を結び、楊氏一族は繁栄を極めます。官僚たちは、政治に励むより楊貴妃とその一族に取り入ることに必死でした。一説には、楊氏一族の家の門前は、各地から取り寄せた献上品(=賄賂)を持参した使者達によって、長蛇の列が出来ていたとか。

楊貴妃自身は政治には興味が無かったようですが、かなり贅沢な日々を過ごしていました。衣服や装飾品を惜しみなく作り、好物のライチは南国から早馬で取り寄せ、王宮では文化人を呼んだ豪勢な宴を催し、冬は玄宗を伴い離宮の華清池に訪れ、翌年の春までのんびり過ごします。時には、玄宗が宦官を、楊貴妃が後宮の宮女を、それぞれ百人余りを率いて馬に乗り、後宮の庭園で戦争ごっこをして楽しみました。正に豪華絢爛な毎日です。

楊貴妃の浪費は一見すると派手なようですが、国家単位で見れば大したことはなく、国の財政を悪化させる程ではありませんでした。但し、こうした行動が玄宗をより一層政治から遠ざけた、という意味では王朝の弱体化を招いたと言えるでしょう。

楊貴妃の悲劇的な最期

玄宗が政務を執らなくなって数年後、実務を取り仕切っていた宰相が死去します。宰相の後継に任命されたのは、楊貴妃の又従兄・楊国忠でした。楊氏一族の専横は益々酷くなった上に、楊国忠の政治的失敗が重なり、遂にはクーデター(安史の乱)が勃発します。

※青の矢印が反乱軍の進路、赤が唐軍 wikiより

命からがら王宮から脱出した楊貴妃玄宗。楊氏一族と少数の家臣を連れ(一行の中には楊貴妃の元夫・寿王もいた)、ひとまず首都の長安を離れ、玉環の故郷であるを目指すことにしました。

しかしその道中、集落に立ち寄った際、兵士たちが以前からあった楊氏への不満や少ない兵糧による困窮の末に反乱を起こします。暴徒と化した兵士たちは、今回の争乱を招いた責任者として楊国忠に非難の矛先を向けると、逃亡に引き連れた楊氏一族を次々に殺害します。

そして、「国を傾けた悪女」として楊貴妃の死を玄宗へ迫ります。玄宗は兵士たちを宥め、楊貴妃について「深窓の後宮にいた身であり、今回の国難とは無関係である」と庇い立てますが、もはや楊氏の一族を一人も生き残しておくことは許されない状況でした。

玄宗は臣下の説得に応じ、腹心の宦官に全てを任せることにします。楊貴妃は宦官を伴って近くの仏堂に入り、首を吊って命を立ちます。亡骸を連れて行くことはできないため、集落の郊外に埋められました。38歳の生涯でした。

その後、安史の乱は十年続きました。反乱を制圧したものの、王朝の権威は失墜し、衰退の一途を辿ることになります。

楊貴妃の人生と唐王朝の盛衰は重なってみえることもあり、楊貴妃の存在は王朝最盛期の煌びやかさを象徴するものになりました。

最後に

当時の記録では批判的な意見が散見されますが、現代では概ね好意的に評されています。

当時の人々にとっては、やはり「名君を堕落させた」というイメージが強く、政治的混乱を引き起こした原因を楊貴妃に求めています。一方、後世の考えでは、政治への関与がほとんど無かった彼女にそこまでの責任はあったのか懐疑的です。

楊貴妃自身は妃としての分をわきまえていました。しかし、一族の横暴がそのまま彼女の評判に繋がり、「傾国」の悪名を生み出してしまいました。

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たけち そらまめ

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