三國志

「正史三国志」と「三国志演義」で活躍に違いがある人物

「正史三国志」と「三国志演義」で活躍に違いがある人物

三国志では「正史」とフィクションが混ざった「演義」とがあり、一般的に映画や漫画になっている三国志は「演義」のものが多いが、実は正史の中には演義に登場しない人物が多く存在する。また正史と演義で活躍に差が生じている人物もいる。

その違いを調べてみた。

「三国志」の素朴な疑問「隠れた英雄達の逸話」

1、呂布の娘「呂玲綺」はゲームの様な「女傑」だった?

~実在はしたが、ゲームの様な「女傑」ではない!~
ゲーム「三国無双」に登場する呂布の娘:呂玲綺。呂布に娘がいたのかと、思った人も多いかと思うが、正史には「妻子」も「妾」もいたと書かれている。しかし「呂玲綺」は、ゲームの様な「女傑」ではないと、正史には書かれている。董卓(とうたく)政権を滅ぼした王允を撃つべく、長安を奪還した際に玲綺は実母:巌氏と共に長安にいたと記されている。

その後、袁術の息子との縁談が持ち上がるが、呂布の配下の者から「人質にされてしまうのではないか」と、注進されると呂布は婚約を破棄。袁術の元へ向かっていた玲綺を連れ戻してしまうのである。

2、呂布と並ぶ豪傑「藏洪(ぞうこう)」とは何者?

~『三国志演義」には登場しない烈士~
中華が反董卓連合で乱れている頃、藏洪は青州の刺史代行を務めていた。藏洪は「体格・容貌」共に優れていると評判で、袁紹から「東郡太守」を任ぜられ、戦乱の最中ながら、ドンドン出世していった。

そんな折、知己の趙邈(ちょうばく)・張超兄弟が曹操に反旗を翻す。臓洪は援軍を出そうとするが、袁紹に引き止められる。結果、張超は敗れ、それを逆恨みした藏洪は、袁紹に反旗を翻したが、袁紹軍は強く藏洪の城は取り囲まれてしまう。城中の兵糧が尽きると、藏洪は愛妾を殺害し兵士に振る舞った為、将兵達は涙を流して感謝した・・という少々残酷なエピソードがある。

3、龐統(ほうとう)が生きていたら「劉備」の天下は変わったか?

~呉との関係が史実よりは「良好」だったかも?~
「臥龍(がりゅう)=諸葛孔」と「鳳雛(ほうすう)=龐統」と呼ばれる天下の才人を二人も「家臣」に加えられた劉備。しかし「鳳雛=龐統」は「益州攻略」の際、軍師として劉備に同行し、大量に放たれた矢に射ぬかれて死んでしまう。龐統の外見を嫌っていた劉備だったが、龐統の「知略と呉の人脈」は多いに劉備陣営に味方した。

正史には「龐統が周瑜に仕えていた」との一節や、病死した周瑜の遺体を送り届ける役を龐統が務めた事から、周瑜との関係が深かった事が解る。「蜀・呉」領地を巡り度々争い、「名臣:関羽」も呉に討たれている。もし「龐統」が長生きしていたら呉との関係も上手くいったのではないか?と推測される。

~「驥足を展ぶ(きそくをのぶ)」とは?~
才能のある者が、十分にその能力を発揮する事を指す言葉だが、これは「龐統(ほうとう)の為に使われたものである。呉の魯粛が劉備に手紙を送った際に、龐統は「百里の才にあらず」と、その「能力」が与えられたものより高いとし、大きな仕事を与えれば『当に其の驥足を展ぶべきのみ』と伝えた事から、現在でも使われる用語となっている。

4、実は「関羽・張飛」よりも強かった「豪傑:程普(ていふ)」

~劉備三兄弟の三倍以上の武力を誇った~
程普(ていふ)は孫堅の代に仕え、黄巾討伐でも武勇を誇った人物。

子の孫策の傍らに、必ず「程普」がいたと記してある。「演義」では、劉備三兄弟が呂布を退けたとあるが、実際に「董卓」を撤退させたのは「孫堅」であり、奮戦した部下の「程普」の功績であった。

5、もう一人の劉備?!漢王室の末裔『劉虞(りゅうぐ)』とは?

~「正史」のみ登場する人徳のエリート~
後漢の建国者、光武帝の長男・東海恭王の末裔の『劉虞(りゅうぐ)」前漢景帝の末裔とだけ称する『劉備』よりも出自がはっきりしているエリートであった。劉虞は幽州刺史に任命され、北方の異民族と関係を良くしていた。反董卓(とうたく)連合軍が結成された時、袁紹は劉虞を皇帝につけようと画策するほどの人物であった。しかし部下の「公孫攅(こうそんさん)」と仲違いをし、やがて幽州を舞台に「戦」へと発展。劉虞は負け、斬首されてしまう。

公孫攅からは「皇帝を侮辱した!」と言われ続けられた最後だった。

魔術師と呼ばれた諸葛亮?!

※武侯祠の諸葛亮像 wikiより

『演義』における諸葛亮は、知略の枠を使い驚くべき様な「戦略・謀略」を見せるほか「奇問遁甲※㊟1」の道術までも会得しているのである。その「人間離れ」した神格化ぶりは、中国の小説家である魯迅が『魔術師』と評した程である。

史実における諸葛亮は極めて常識的な人物であり、人を出し抜き驚かせる「奇策」は行わなかった。また諸葛亮というと「軍師」というイメージが強いが、実際には劉備存命中には、具体的な戦場での作戦面には殆ど言及も、作戦立案もしていない。「関羽」同様に、諸葛亮に関する創作の最も大きな点は「」にまつわるものだろう。中でも最も記憶に残る「赤壁の戦い」=「借東風」である。諸葛亮が風を呼ぶ記述は『演義』が出来上がる前の『三国志平話※㊟2』にも「諸葛祭風」という形で記されている。

㊟1:「奇問遁甲」とは?
遁甲式、八門遁甲とも呼ばれる中国の占術。占星術から派生し、天文現象から「吉凶」を判断して人の目をくらまし身を隠すという呪術的な要素を含む。干支や二十四節気から算出する局数を基にして式盤・遁甲盤という専用の盤を使用して占いを行う。

㊟2:「三国志平話」とは?
元の時代の講史書であり「全相平話」に納められている話の一つ。全相とは毎ページに挿絵があるという意味であり、講談の「説三分」の種本を文章化し、挿絵を加える形で製作されており、全三巻の構成になっている。『三国志演義』に比べ史実よりも、民間伝承などが色濃い内容で、より通俗的で荒唐武滑な話を含む作品になっている。

まとめ

「正史:三国志」正史とは「正しい歴史」ではなく「正統な歴史」という意味である。
「三国志演義」はフィクションが含まれるが、大筋は「正史」でディテールが違うだけである。もっと『三国志』を楽しみたい方は『三国志きらめく群像』高島俊男著:ちくま文庫発行をお勧めしたい。
正史に描かれた登場人物の記述を中心に『演義』と比較しながら、その人物像をより深く掘り下げている一冊である。

フィクションであれ、史実であれ自分が一番楽しめる「三国志」バージョンで曹操や劉備・諸葛亮・関羽・・それぞれの人物が作った歴史に触れる素晴らしさに触れる事ができれば最高である。それが「三国志」の醍醐味でもある様な気がする。

関連記事:
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「三国志」を記述してきた歴史家たち【正史&演義】

 

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