三國志

諸葛孔明の「天下三分の計」と周瑜の「天下二分の計」

天下三分の計とは

諸葛孔明の「天下三分の計」と周瑜の「天下二分の計」

※諸葛孔明

三顧の礼の後にようやく出会った劉備玄徳と諸葛孔明だが、二人が初めて会った時に孔明が劉備に説いたのが、天下三分の計こと隆中策である。

簡単に説明すると、劉備の中国統一のための一歩として南西の益州を手に入れ、北の曹操、南東の孫権に対抗していずれは両者に勝って天下を統一するという策である。

劉備と孔明は天下三分のために動き出すが、江東では天下二分の計を考えている男がいた。

今回は、孔明による天下三分の計と、周瑜が描いていた天下二分の計について解説する。

勝算のある話だった孔明の「プラン」

諸葛孔明の「天下三分の計」と周瑜の「天下二分の計」

200年頃の勢力図 ※草の実堂作成

西暦200年代初頭、劉備は確固たる地盤も戦力も持っておらず、荊州劉表の元に身を寄せていた。

当時の劉備が身を寄せていた荊州は中国の中南部にあり、劉備のターゲットである益州に隣接しているため彼の戦略的にも重要な土地だった。

中国の中央にあるという事は曹操孫権の支配する地域と隣接しているため攻め込まれるリスクはあるが、それ以上に、今後の本拠地として狙う益州への玄関として、劉備が一大勢力を築くために荊州は絶対に必要だった。

そして、孔明には高齢で寿命を迎えつつあった劉表から荊州を受け継ぐとともに支配体制が脆弱な益州を手に入れ、孫権と同盟を結んでともに北の曹操と当たるだけの戦力を蓄え、時が来たら曹操に当たるというプランがあった。

また、益州を支配する劉璋は君主として国を支配出来るような器ではなく、家臣からの忠誠心も高いとは言えない。

更に、劉璋は後に劉備から益州を奪われるという歴史が証明しているように軍事面でも劉備に劣っており、劉備の益州支配は十分勝算のある話だった。

そのため、劉備が自分の土地を得て曹操、孫権と対抗するための勢力を築くというのは決して絵空事ではなかった。

天下三分に向けて行動開始

計画の最重要拠点である荊州は、劉表の後を継いだ劉琮が曹操に降伏してしまったため曹操が支配する事になるが、劉備は孔明の進言通り孫権と同盟を結び、赤壁の戦いで曹操を破った後に荊州の南部を支配して天下三分ための足掛かりを手に入れる。

劉備が荊州で着々と準備を進める中、劉璋陣営から劉備陣営に内通者が現れるなど劉備にとって追い風となる出来事が起こる。

部下の間で不穏な空気が流れている事を知ってか知らずか、212年に劉璋は敵対勢力である張魯と対抗するための援軍として劉備を益州に招き入れる。

劉備にとってこれは益州侵攻開始の合図であり、まずは派手な軍事行動は起こさず、益州内部で人心を掴むなど今後のためへの準備を進める。

劉備の計画は順調に進んでいるように見えたが、劉璋配下から現れた内通者の一人である張松が劉備に宛てた手紙を発見されて殺された事をきっかけに、劉備と劉璋の間で戦争が勃発する。

互いに少なくない犠牲者を出した長期戦の末、劉備は214年に劉璋を降伏させて益州を手に入れる。

こうして、当初の計画通り益州と荊州の一部を領有した劉備だが、その後は計画通りに進んだとはいえないものになる。

計画の崩壊

赤壁の戦いで実質的に曹操軍と戦った自分達の功績(主に演義での主張)として孫権が荊州の割譲を要求し、孫権のお陰で自分達が生き残れたという事実に劉備も断る事が出来ず、荊州を孫権と二分する事になる。
劉備としても喜んで孫権に荊州を譲った訳ではなく、孫権も渋々領地を譲った劉備の態度を快く思わないなど、この時期から両者の間に緊張状態が流れ、劉備と孫権の間を取り持っていた魯粛が死去すると一触即発の状態だった関係が更に深刻化する。

更に、孫権の息子と関羽の娘との縁談を関羽が断った事により、関羽と孫権の間に亀裂が入り、後の関羽の樊城攻めで孫権軍の攻撃を許すきっかけになる。

219年、関羽が樊城を攻撃した際に孫権軍から背後を突かれ、関羽が戦死するとともに劉備は荊州まで失ってしまう。

諸葛孔明の「天下三分の計」と周瑜の「天下二分の計」

劉備は関羽の仇討ちとして荊州奪還の軍を出すが、夷陵の戦い陸遜の火計によって大敗し、天下三分から中国統一を果たすための国力を完全に失う事になる。

そして、夷陵の戦いから程なくして劉備が崩御した事によって三国志の一つの時代が終わるとともに、この瞬間に天下三分の計は事実上の失敗となった。

天下二分の計

勢力を三分して天下統一のための足掛かりとする事を目的とした天下三分の計だが、同時期に別の視点から天下統一を狙う男がいた。

諸葛孔明の「天下三分の計」と周瑜の「天下二分の計」

※周瑜

赤壁の戦いで曹操を破る立役者となった周瑜(しゅうゆ)は、自分達が南半分を支配して北を支配する曹操に対抗する策を考えていた。

荊州と益州の中国南部を支配し、当時独立勢力だった西涼の馬騰、馬超親子と手を組んで曹操を挟撃して倒するというものである。(ここでは「天下二分の計」と書く)

周瑜による天下二分の計が実行された訳ではないのでここからは想像するしかないが、荊州の一勢力に過ぎなかった劉備軍はまだ組織として脆弱であり、益州の劉璋も弱小勢力だった劉備に滅ぼされるほど弱かった。

孔明が劉備の益州支配は十分可能であると考えていたように、周瑜も劉備に先んじて益州を手に入れれば曹操にも対抗出来る勢力を作れると考えていた。

しかし、益州攻めの準備をしている最中に周瑜は病没してしまう。

周瑜の死によって益州遠征計画は白紙となり、劉備が益州を領有する事になるが、仮に周瑜が先に攻めていれば益州を手に入れていた可能性は高く、劉備が第三勢力として独立する事もなかった。

歴史にifはないが、周瑜の死はもしも周瑜が生きていたら歴史が大きく変わっていたかもしれないという、一つの可能性が消えた瞬間でもあった。

 

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