飛鳥時代

大津皇子について調べてみた【万葉の悲劇の皇子】

大津皇子について調べてみた【万葉の悲劇の皇子】

※二上山

大阪と奈良の境に位置する「二上山(にじょうざん・ふたかみやま)」。その姿はまるで「らくだ」のコブのように見えます。
謀反の罪を被せられ、若くして命を落とした悲劇の皇子、大津皇子(おおつのみこ)はここに眠るのです。

大津皇子をとりまく歴史人たち

大津皇子はどんな人物だったのか?
父に天武天皇(大海人皇子)、母に大田皇女、一つ年上に当たる姉に大伯皇女をもちました。
実は、父も母も大化の改新で名を覇せた、中大兄皇子(後の天智天皇)の血縁なのです。

※天智天皇(中大兄皇子)

すでに、ここから始まっていた

飛鳥時代、父・大海人皇子(おおあまのおうじ)には美しい恋人、額田王(ぬかたのおおきみ)がいました。
2人の間には娘(十市皇女)も授かり、大変仲睦まじく羨むような仲だったのです。
そんな2人の仲を引き裂くかのように、天智天皇は額田王を譲るように話を持ちかけてきました。
ご承知の通り、天智天皇と大海人皇子は血のつながる兄弟(大海人皇子が弟)。

ですが、天智天皇といえば欲しいと思うものはどんな事をしてでも手に入れる人物です。ましてや、あれだけ力を持っていた蘇我氏を大化の改新で一掃し、自ら天皇とまでなった人物なのです。

このまま断り続ければ…

大海人皇子は悩み抜いた末、天皇の条件をのみ、額田王と天皇の娘を交換してしまうのです。

大津皇子の誕生

額田王は天皇のもとへ、代わりに大海人皇子には天智天皇の娘2人が与えられました。
その名は、姉・大田皇女(おおたのひめみこ)と妹・鵜野讃良(うののさらら)。鵜野讃良は後の持統天皇にあたります。

大津皇子について調べてみた【万葉の悲劇の皇子】

※小倉百人一首におさめられた持統天皇の歌

662年、鵜野讃良(妹)と大海人皇子の間には、草壁皇子が、次いで663年に大田皇女(姉)と大海人皇子の間に大津皇子が産声をあげるのです。(1つ年上の姉に大伯皇女)
※大海人皇子には、他に第1皇子・高市皇子がおり、大津皇子は第3皇子になります。

動き始めた運命は…

大津皇子が産まれた前後は、日本と他国との争いも多かった時代でした。天智天皇は強固たる国造りを行うために都を近江京に遷都したのです。

大津皇子について調べてみた【万葉の悲劇の皇子】

※大友皇子(弘文天皇)

自分の後継者は大海人皇子だと言うも、内心はそうではなかった天智天皇。

長男にあたる大友皇子(おおとものおうじ)が本命だというのを悟っていた大海人皇子は、我が子 高市皇子(19才)と大津皇子(10才)を人質同然と分かりながら近江に残し、自らは鵜野讃良らを引き連れ奈良の吉野に籠るのでした。

壬申の乱

その後、672年1月に天智天皇が亡くなりました。

これを待っていたかのように、近江京では兵を整え大海人皇子を討つ準備が大友皇子を中心に進められていたのです。

吉野へは食料を届ける道も朝廷により寸断され、身の危険を感じた大海人皇子は美濃を拠点にし挙兵する決意を固めたのでした。これが古代日本最大の内乱、壬申の乱(じんしんのらん)の始まりです。

奈良の桜井での戦い、最後の決戦場所となった瀬田川の決戦も難なく終え、大友皇子を中心にしてきた朝廷は敗れ、大海人皇子の勝利に終わりました。

※飛鳥宮跡 石敷井戸(飛鳥浄御原宮期の復元遺構)wikiより

 

673年には、大海人皇子が飛鳥浄御原(あすかきよみのはら)にて即位し、天武天皇となるのです。
二度と会えないと思っていた親子の再会も果たされ、どれだけ嬉しかったことでしょう。

後継者争い

しかし、大津皇子の本当の悲劇は父・天武天皇亡き後から始まったのです。
壬申の乱の後、天武天皇は683年9月に亡くなります。
わが身を通じて起こった過去より、血の争い(後継者争い)はしないようにと伝えられていましたが、やはり我が子可愛いさに始まってしまうのでした。

第1皇子の高市皇子の母は位が低く、後継者には選ばれることはありません。第2の皇子、鵜野讃良の息子 草壁皇子は一番年上で、後継者に価します。
しかし、ここで名前があがったのは第3皇子の大津皇子でした。

草壁皇子と大津皇子は年も1つしか変わらず、草壁は身体が弱く考え方もひ弱でした。
かたや大津皇子はといえば、人望もあり、頭も良く、誰からも親しまれる人柄だったのです。

これだけの違いが誰の目から見ても判断できるのであれば、次の後継者に名が上がるのはお分かりいただけるでしょう。
大津皇子の名前が耳に入ってくるのを恐れた草壁皇子の母・鵜野讃良は良からぬ事を考え始めるのです。

大津皇子の最期

父・天武天皇が亡くなり一ケ月後の683年10月、大津皇子は自害の最期を遂げています。
罪状は、謀反。24才の若さでした。さぞ無念であったことでしょう。

「百伝ふ いわれの池になく鴨を 今日のみ見てや 雲隠れなむ」

大津皇子が最期に詠まれたうたです。
いわれの池になく鴨を見るのもこれが見納めだ」きっと、自身の最期を感じとっていたのでしょう。

大津皇子の妃、山辺皇女も後を追い殉死しています。

この謀反では皇子の従者30人余りが捕らえられました。

しかし、大津皇子自害の後には一部の者だけを流刑にして、他は罪なしとし解放されています。狙いはやはり、大津皇子1人だったのだと確信できるのです。
我が子 草壁可愛さに、鵜野讃良が実の姉の子までもを死に追いやった出来事は、今もなお語り伝えられています。

大津皇子が亡くなり3年後、草壁皇子も若くしてこの世を去りました。
693年には草壁皇子の息子、軽皇子が文武天皇となり即位されますが、こちらも25才で亡くなるのです。

その後は鵜野讃良が持統天皇となられ世を納められました。

二上山は神の山

※二上山 wikiより

謀反の罪ならば、神と仰がれる二上山に葬られることはないと考えるのが一般的な答えになるでしょう。
しかし、大津皇子の墓は二上山にあるのです。それは何故なのでしょう。

謀反の罪を被せた持統天皇の哀れみからなのか、本当は大津皇子を認めていたのではないか…

謀反の罪が本当であれば、神の山に葬られることはなかったはずです。

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