安土桃山時代

石田三成は優秀な家臣だったのか調べてみた

石田三成

はじめに

石田三成については、豊臣秀吉に小姓として取り立てられ、後に秀吉にとって重要な家臣まで上り詰めた人という印象を受けると思われる。

また、同じ豊臣の家臣の中で、加藤清正・福島正則・黒田長政など武断派の武将と対立していた人で、関ケ原の戦いでは負けた側の武将として知られている。
石田三成は西軍の武将に裏切られたことでよい評価をされていなかったが、戦いや内政面での評価が見直される傾向にある。

ここでは、石田三成について、人柄や戦で評価が見直されている点を中心に考えたい。
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豊臣秀吉に取り立てられるまで

石田三成は近江国の出身で、現在の滋賀県長浜市の石田町で生まれたと言われている。

寺の小姓として預けられていたとき、浅井氏が滅び豊臣秀吉が近江国の長浜城主となった。このとき、石田三成は秀吉にお茶を出したところ、茶の出し方がうまいと秀吉に評価され、小姓として取り立てられたと言われている。この茶を出している様子については現在長浜市に銅像になっている。

織田信長本能寺の変で倒れると、三成は秀吉の家臣として台頭するようになった。1585年に秀吉が関白になると治部少輔となる。大河ドラマなどで三成のことを「石田治部」とか「治部」と呼ぶのを耳にした人がいるかもしれないが、治部少輔に任命されたからである。

秀吉は天下統一を果たしてから全国の田畑の検地をおこなったとが、検地を成功させた人物が石田三成で後に太閤検地として知られることになった。

三成については戦について良い評価がされていないが、戦についての記録について残っているものとして賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)が挙げられる。


※『賤ヶ嶽大合戦の図』 賤ヶ岳の戦いの錦絵
賤ヶ岳の戦いと言えば、加藤清正・福島正則など賤ヶ岳七本槍が有名で、多くの人は三成が活躍していないという印象を受けると思われるが、諜報活動で活躍したという記録が残っている。
戦について良い評価がされない要因として、小田原征伐忍城攻めが挙げられる。小田原城以外の北条氏の支城については早く陥落させていたが、三成が攻めた忍城については他の支城と比べると長期化している。このことが石田三成の戦に対する評価を下げている要因となっている。

石田三成は戦での評価を下げているが、最近の研究では戦についても優秀であるという評価に変わりつつある。特に戦での評価が変わっている点として、兵糧や兵の数を計算する後方支援が挙げられる。九州征伐では大軍を率いるための兵士・武具・兵糧の輸送に貢献したと言われている。朝鮮出兵でも兵士・武具・兵糧の輸送や明との講和交渉に貢献するなど後方支援で評価されている。

戦は前線での戦いや戦術が全てではない。兵站などの後方支援や外交術など全体に関わる戦略的要素は戦には非常に大きな要因となる。

三成は戦に関しては前線タイプではなかったというだけで、適材適所で考えれば戦においても実に有能な武将であった。

石田三成ら文治派と福島正則ら武断派との対立

石田三成と言えば福島正則・加藤清正など武断派らと対立していたことで知られている。大河ドラマなどドラマでの三成は論理的に考える官僚のような人物として描かれていて、福島正則ら武断派から情がないという理由で三成を嫌っていたという印象を受けるかもしれない。


※福島正則像

実際に石田三成と福島正則らが対立したきっかけは2度目の朝鮮出兵である慶長の役であると言われている。

三成は戦いの縮小を提案した武将を秀吉に報告し、秀吉は加藤清正・黒田長政らを処分した。この処分した出来事が石田三成と福島正則らの対立につながったと言われている。
豊臣秀吉は死の床の際に、徳川家康を筆頭とする五大老石田三成を筆頭とする五奉行を任命し、幼い豊臣秀頼を支える体制を整えた。

五大老の一人である前田利家が死亡すると、石田三成と福島正則らは対立し石田三成襲撃事件が起こった。三成は佐竹義宣の助力により難を逃れたものの、五奉行から追われ、佐和山城に蟄居した。

関ケ原の戦いとその後の石田三成

石田三成直江兼続と図って徳川家康を排除するために、直江状と呼ばれる書状を家康に送った。これが関ケ原の戦いにつながっていく。

関ケ原の戦いが始まると、午前中は三成らが率いる西軍が有利になるが、午後から西軍の武将が東軍への裏切りが相次ぎ、東軍の勝利で終わった。

三成は関ケ原から居城である佐和山城に逃れようとしたが、佐和山城は陥落した。三成は近江国の伊吹山系の山に逃げていたところを捕らえられたと言われている。
ほとんどの武将は負けた場合、敵に首をさらされないようにするために自害していたが、三成は薩摩に戻ってもう一度合戦をするために、最後まで諦めない姿勢を見せ、自害せず生きていたと言われている。また、逃亡していた近江国の農民にこれ以上世話になるわけにはいかないと言って、徳川方に差し出すように命令したというエピソードもある。
敵方の徳川家康は捕らえられた三成を見て、三成が六条河原で処刑される前に、三成の最後まで諦めない姿勢を高く評価していたと言われている。

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