安土桃山時代

外国人から見た豊臣秀吉 「ルイスフロイスの人物評」

織田信長が本能寺で横死したあと、家臣だった豊臣秀吉が新たな天下人となった。

宣教師たちはこぞって秀吉に近づいたが、信長と親しかったルイス・フロイスは秀吉に良い印象を抱いてはいなかった。

日本史」では、秀吉の容貌について「秀吉は身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手に6本の指があった。シナ人のように髭が少なかった」と述べている。

出自についても「血統からみれば大して高貴な出ではなく、その家系は日本の君主になり得る身には程遠いものがあった」と辛辣に記した。

フロイス、つまり外国人から見た豊臣秀吉とは、どのように映ったのであろうか。

豊臣秀吉への酷評

ルイスフロイスの人物評
【※豊臣秀吉】

フロイスは信長に傾倒していたが、それゆえに信長の天下を盗み取った秀吉が許せなかったのだ。「日本史」にも

「(秀吉は)幸運にも信長の後継者になるに及び、あらゆる方法で自らを装い、引き立たせようと全力を傾けた」

と、秀吉が成り上がり者で身の程知らずだということを切々と記している。

さらにルイス・フロイスは「日本史」で豊臣秀吉を容赦なく酷評している。

「彼はこの上ない恩知らずであり、自分に対する人々のあらゆる奉仕に目をつぶり、このようなことで最大の功績者を追放したり、恥辱をもって報いるのが常であった」

「彼は尋常ならぬ野心家であり、その野望が諸悪の根源となって、彼を残酷で嫉妬深く不誠実な人物、欺瞞(ぎまん)者、虚言者、横着者たらしめた」

「彼は自らの権力が順調に増していくにつれ、それとは比べ物にならぬほど多くの悪癖と意地悪さを加えていった。家臣のみならず外部の者に対しても極度に傲慢で、嫌われものでもあり、彼に対して憎悪の念を抱かぬ者はいないほどだった」

キリスト教との共存

ルイスフロイスの人物評
【※ルイス・フロイス(1532年 – 1597年)の署名】

フロイスが秀吉を批判的に見ているのは、彼が伴天連追放令を発してキリスト教を邪法と見なしたからだ。だから、この秀吉評は「迫害されたキリシタン側の偏見だ」と見なされている。

高山右近や小西行長、蒲生氏郷、黒田官兵衛など、秀吉の家臣には多くのキリシタン大名がいた。そのため、秀吉も最初はキリスト教に好意的だった。

教会を訪れた時には、日本人修道士のロレンソ了斎(りょうさい)に向かって「キリシタンの教えはよいが、多くの側女(そばめ)をはべらせられないのが困る。それさえ許されれば、余もキリシタンになろう」といったこともあった。

このようなやり取りからもわかるように、秀吉はキリスト教勢力と比較的友好的な関係を築いてきた。ところが1587年(天正15年)、九州征伐を完了させた秀吉は博多で突如伴天連追放令を出した。

宣教師や信者たちは動揺し、不安をつのらせたのである。

ルイスフロイスの分析

豊臣秀吉が伴天連追放令を発した理由には諸説あり、はっきりしたことはわかっていないが、イエズス会日本支部の準管区長を務めたガスパール・コエリョの軽率な行動が関係していることが指摘されている。

彼は博多にいる秀吉に大砲を積み込んだ大船を見せつけたが、こうした行為が追放令の発令につながったともいわれる。

秀吉は南蛮貿易を継続させるため、追放令を徹底することはなかったが、日本に20年以上滞在してきたルイス・フロイスにとっては耐えがたいものがあった。

天下統一後、大陸進出を夢見た秀吉は朝鮮出兵を敢行する。

だが、フロイスは「日本は他国の人間と戦争するようには訓練されていない。支那への順路も航海術も、征服しようとする敵方の言語や地理さえ理解していない」と分析しており、日本軍が敗れることを予期していた。

結局、秀吉の死をもって日本軍は撤退したが、フロイスはその顛末を見ることなく、1597年(慶長2年)にこの世を去っている。

割れる秀吉像

ルイスフロイスの人物評
【※日本二十六聖人記念碑(記念碑の背後に記念館がある)】

1596年(文禄5年)9月、スペイン船のサン=フェリペ号が暴風雨の影響で土佐国浦戸(うらど)に漂着した。豊臣秀吉は奉行を土佐の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)のもとへ遣わし、対応にあたらせた。

スペイン商人のアビラ・ヒロンが著した「日本王国記」に注釈を添えたイエズス会宣教師ペドロ・モレホンによるサン=フェリペ号の航海士たちは「我々は世界中と取引しようとしている。もし我々を挑発すれば、領土を奪う」と奉行を挑発したのである。この件を聞いた秀吉は激昂し、京都とその近郊にいた宣教師やキリスト教信者を捕らえ、長崎で磔刑に処した。この串刺しこそ有名な「二十六聖人殉教」の一部始終だが、アビラ・ヒロンは、翌年に秀吉に拝謁し、像などを献上している。このときの秀吉の様子を「日本王国記」では、秀吉がいたく満悦したと伝えている。

激情家である一方、秀吉は外国人そのものを敵視していたわけではない。ヒロンは長崎で秀吉の訃報に接したときには次のように書いている。

「彼はいわば我々のいわば父だった。我々は心から悲しんだ。伴天連を迫害し、その財産を没収したことを除けば、我々(商人たち)には何の害も加えなかった。それどころか我々をかばってくれて、誰も我々に侮辱を加えることを許さず、そのようなことをした日本人を厳罰に処した(日本王国記)」

最後に

晩年の秀吉は暗愚だったというのが歴史の常識となっているが、老齢に達した後も、秀吉には人を惹きつける魅力があったのである。

見る者によって名君にも暴君にも思えたということは支配者にとっては世の常なのだ。

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