安土桃山時代

織田信長の本当の人物像に迫る【外国人ルイス・フロイスが見た信長】

信長が生きていた当時、ポルトガルから日本にキリスト教の布教にきていたルイス・フロイスという宣教師がいた。

ルイス・フロイスは日本についての膨大な著書を残しており、その「フロイス日本史」をもとに先日、明智光秀の本当の人物像に迫るという記事を書いたが、今回は信長の人物像に迫ろうと思う。キリスト教徒からの視点という以外は、政治的忖度のない外国人目線の客観的な記述が多く、フロイス日本史は史料としても評価が高い。

フロイスは何度も織田信長に会っており、信長がどんな外見をしていて、どんな性格で、実際にどんな会話をしていたのか、多くの記述がある。

その中から特に信長の人物像が浮き出る箇所を引用し、本当の人物像に迫っていきたいと思う。

織田信長の身長、性格、習慣

織田信長の身長、性格、習慣

※織田信長像 (神戸市立博物館蔵、重要文化財)wikiより

信長は尾張の国の三分の二なる殿(信秀)の第二子であった。彼は天下を統治し始めた時には三十七歳くらいであったろう。彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、髭は少なくはなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義においては厳格であった。彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。幾つかのことでは人情味と慈愛を示した。

彼の睡眠時間は短く早朝に起床した。貧欲でなく、はなはだ決断を秘め、戦術にきわめて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。彼はわずかしか、またはほとんどまったく家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた。酒を飲まず、食を節し、人の取扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。※フロイス日本史第三十二章より引用  松田 毅一 (翻訳), 川崎 桃太 (翻訳)

信長の身長は中くらいの背丈と記述がある。身長に関してはいくつが説があり165〜170センチくらいという説が最も多い。当時の日本人の平均身長は低かったとはいえ、外国人目線からなのでそれくらいの身長だったと推測できる。外国人の平均身長も今よりは低かったが日本人よりは大きかったであろうし、それくらいが無難な推測と言える。

痩せ型で髭はほとんどなく声は快調というと、明石家さんまや横山やすしのような感じだったのだろうか? 少なくとも低い声のイメージは感じない。

性格に関しては激情型で尊大だが、普段は意外と普通でキレたら怖いという感じである。優しさも持ち合わせていたようだ。そして睡眠時間は短めで食生活も含めかなり規則正しい生活をしていたようだ。

他にもこんな記述がある。

彼は自宅においてきわめて清潔であり、自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ、対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賤の家来とも親しく話をした。彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩りであり、目前で身分の高い者も低い者も裸体で相撲をとらせることをはなはだ好んだ。彼は少しく憂鬱な面影を有し、困難な企てに着手するに当たってははなはだ大胆不敵で、万事において人々は彼の言葉に服従した。

かなりの綺麗好きだったようだ。前置きや社交辞令を好まず身分で人を判断せず、率直な会話を好むところは、現代のカリスマ起業家のようだ。繊細さと大胆さを持ち合わせていたことも伺える。

信長が足利義昭のために建築中の二条古城を、フロイスが訪れた場面

織田信長の本当の人物像に迫る【外国人ルイス・フロイスが見た信長】

※二条古城 石垣(京都御苑内)wikiより

信長は、ほとんどつねに座るために虎皮を腰に巻き、粗末な衣服を着用しており、彼の例に倣ってすべての殿および家臣の大部分は労働のために皮衣を着け、建築の続行中は、何びとも彼の前へ美しい宮廷風の衣裳をまとって出る者はいなかった。建築を見物しようと望む者は、男も女もすべて草履をぬぐこともなく彼の前を通る自由が与えられた。ところでかつて建築作業を行っていた間に、一兵士が戯れに一貴婦人の顔を見ようとして、その被り物を少し上げたことがあった時、信長はたまたまそれを目撃し、ただちに一同の面前で手ずからそこで彼の首を刎ねた。

だがこの建築の歳、きわめて驚くべきことは、彼が信じぬことができぬほどの短期間にそれを成就したことである。すなわち少なくとも二、三年はかかると思われたものを、彼はほとんどすべてを七十日間で完成した。

昔、信長の少年期を漫画で見たことがあるが、虎皮をまとっていた。フィクションかと思っていたが本当に着用していたようだ。

婦人に失礼があった兵士の首を刎ねてしまうというのは恐ろしいが、建前より能率重視であっという間に城を建ててしまう統率力は目を見張るものがある。

フロイスから見た将としての信長

信長は勇敢であり、驚嘆すべき軍将であった。彼は十四ヶ年に日本の約五十ヶ国を征服し、死ぬ前には、すでに、全日本六十六ヶ国の絶対君主になる間際であった。彼は越前、美濃、甲斐の国主、ならびに公方様を殺害した両人、すなわち河内国主三好殿と大和国主(松永)霜台弾正殿父子を殺し、彼らからすべてそれらの国を奪い、大小の諸君候をその他の統治している地から放逐し締め出した。

人々が革新するところによれば、彼は日本において彼に先立つあらゆる諸侯のうちでもっとも幸運に恵まれ、もっとも富み、かつ強大な人物であった。幸運に恵まれたというのは、彼がつねに戦争で得た良き成功によるもので、彼がそれらの戦いで勝利者とならなかったことは稀であった。

このあたりはイメージ通りである。それにしてもフロイスの当時の情勢記述の正確さには驚かされる。

信長の宗教観

彼は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏のいっさいの礼拝、尊祟、ならびにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。形だけは当初法華宗に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大にすべての偶像を見下げ、若干の点、禅宗の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。

信長の宗教観に関する記述はこれ以外にも膨大にある。読み込んでいくと信長は仏教を嫌いというより、仏教を笠に武装し、富を蓄え多くの城や土地を持ち、権勢を振るい大敵となるに至っていた当時の末法化した日本仏教システムを嫌っていたようだ。

フロイスやロレンソ了斎たちとも何度も宗教論議をしているし、キリスト教を擁護し多くの支援をしたのも、政治的な理由の他に感情的にも、はるか異国の地からリスクを背負い単身やってきた宣教師たちの方が、当時の仏僧に比べればよほど本物の宗教家に思えたからだろう。遠方からはるばる言葉も通じぬ異教徒の国に来て苦労している彼らに同情や驚嘆の発言をしている記述も数多くある。

宣教師たちはマクロな視点でみると、ヨーロッパからの陰謀的な侵略とも捉えられるが、現地に来ていた宣教師たちはそれこそ命がけで布教していた本物の宗教家だったと思うし、陰謀的な側面を心配していた家臣や仏僧たちの意見も当然あったが、信長は仮に陰謀があっても少人数な上、自分の管理下にある彼らには何もできず、むしろはるか異国から命がけで布教している彼らに比べ小心な考えであると一笑している。

そういった意味では信長は宗教の本質と、民衆に宗教が必要なこともよく理解し、異国の情報や知識、外交、新しい品々などの利点、哲学的にもよく吟味した上で、当時の仏教よりキリスト教を推したのだろう。宗教改革的に当時のキリスト教は信長にとっても都合が良かった。

フロイス日本史を読み込んでいくと、キリスト教の擁護といったレベルにとどまるものではなく、信長は想像以上に宣教師たちを援助している。この点に関しては長くなるので、また機会ある時に書いていきたいと思う。

フロイスたちと信長の会話

※金華山の山上にある復興天守と岐阜城資料館 wikiより

信長がフロイス、ロレンソ修道士、佐久間信盛、柴田勝家たちと当時建築したばかりの岐阜城を見学しにいった時の会話が記されている。

「貴殿に予の邸を見せたいと思うが、他方、貴殿には、おそらくヨーロッパやインドで見た他の建築に比し見劣りがするように思われるかも知れないので、見せたものかどうか躊躇する。だが貴殿ははるか遠方から来訪されたのだから、予が先導してお目にかけよう」

信長との会話も多く記述されているが、信長の性格がよく表れている一文なので引用した。

自慢の城を外国人に見せ、語り継いでもらいたいが自信満々というわけでもない。見栄っ張りであるが繊細、しかししっかりと筋は通すといった性格である。それにしても信長が何を話したかということがありありと残っているというのは実に面白い。

信長の習慣および性格から、たとえその寵臣であっても、彼が明白な言葉で召喚したのでなければ、誰もこの宮殿の中へは入らぬのであり、当時、いっしょに入ったすべてのかの殿たちにとっても、宮殿を見るのはこれが初めてとのことでありました。

その後、一同は信長に先導され城の中に入っていったわけだが、佐久間信盛や柴田勝家でさえも入ったことがなかったわけだから、いかにフロイスたちが優遇されていたかが伺える。

家来がどれほどビビっていたか

前述の宮殿はフロイスたちから見ても十二分に豪華絢爛のものであったようだが、彼らを驚かせたのは違う部分であったようだ。

美濃の国、またその政庁で見たすべてのものの中で、もっとも私を驚嘆せしめましたのは、この国主(信長)がいかに異常な仕方、また驚くべき用意をもって家臣に奉仕され畏敬されているかという点でありました。すなわち、彼が手でちょっと合図をするだけでも、彼らはきわめて凶暴な獅子の前から逃れるように、重なり合うようにしてただちに消え去りました。そして彼が内から一人を呼んだだけでも、外で百名がきわめて抑揚のある声で返事しました。彼の一報告を伝達する者は、それが徒歩によるものであれ、馬であれ、飛ぶか火花が散るかのように行かねばならぬと言って差し支えがありません。

都では大いに評価される公方様の最大の寵臣のような殿も、信長と語る際には、顔を地につけて行うのであり、彼の前で眼を上げる者は誰もおりません。彼と語ることを望む、政庁になんらか用件のある者は、彼が城から出て宮殿に下りて来るのを途上で待ち受けるのです。

信長がちょっと手で合図するだけで、何人もが猛ダッシュで消えたり出てきたりするのである。想像するととても面白い。

信長が家臣たちから恐れられていたことは知っていたが、ここまでの風景だったとは思わなかった。外では常に100人近くが待機し、ちょっと声をかけただけで、競うように大声で返事をするのである。伝達する使者も常に猛ダッシュでやらなければならない。信長に用があるものは城の外で、いつやってくるかもわからない信長を延々と待たねばならない。想像以上の天下人っぷりである。

建築現場などでは草履でOKでフランクだが、政治仕事では異常な上下関係で、メリハリが凄いというかなんとも接するに大変な人物像である。

「真実は小説より奇なり」という言葉があるが、フロイス日本史を見る限りは、想像とはまた違った信長像が見えてきて非常に面白い。

また次の機会にとりあげていこうと思う。

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明智光秀の本当の人物像に迫る【宣教師ルイス・フロイスから見た光秀
織田信長は本当に「人間五十年」と謡(うた)ったのか

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コメント

  1. アバター
    • 勝矢
    • 2018年 8月 14日

    明智の血の薄い光秀に注目しても何も面白くない、
    光秀の素性をオープンにして大河ドラマやりなさい。
    楽市楽座は信長出なく氏真でしょ最初にやったのは!

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