安土桃山時代

宝蔵院胤栄の槍術【上泉信綱に学び宮本武蔵に挑まれた神槍】

宝蔵院胤栄とは

宝蔵院胤栄とは

※胤栄は三日月形の槍を開発したという

あの宮本武蔵が立ち合いを望んだ相手の1人が宝蔵院胤栄(ほうぞういんいんえい)である。

胤栄は奈良の興福寺の僧兵で十字槍の槍術・宝蔵院流を創始して全国にその名を知らしめた。

柳生石舟斎・北畠具教・上泉信綱らと親交があり、柳生新陰流の奥義にも関係したとされる人物でもあった宝蔵院胤栄について追っていく。

宝蔵院胤栄の生い立ち

宝蔵院胤栄は大永元年(1521年)中御門但馬胤永の次男として生まれる。

中御門氏は天武天皇の第4皇子である舎利親王の後継と言われる家柄で、興福寺の衆徒の中でも僧兵を担当する武門の家系であった。

興福寺は現在の奈良県奈良市にある藤原氏の祖である藤原鎌足と、その子・不比等のゆかりの藤原氏の氏寺である。

鎌倉・室町時代になると大和四家の武士と僧兵などを抱える巨大な力を持っていたので守護が置かれず、大和国の事実上の国主が興福寺であった。

巨大な勢力だったので自治警護や他国からの攻撃を守るために僧兵たちは日々剣術の研鑽を積み、特に宝蔵院は槍術(素槍)に力を入れていた。

興福寺に入った胤栄は若衆徒という武装警察権力を持つ六法衆として、僧兵の伝統的武術である薙刀や長巻などの長道具の修練をしていた。

そこに大西木春見という回国修業をしていた神道流の兵法者が興福寺を訪れ、胤栄は彼から剣法・長刀・槍法など総合的兵法を学ぶ。

神道流は剣法・長刀・槍法など総合的兵法で、特に大西木春見は長刀と槍を得意としていた。

宝蔵院胤栄とは

※千鳥十文字槍 wiki(c)Rama 

胤栄はある晩、稽古中に庭の猿沢の池に映った槍が三日月と重なるところを見て、十字鎌槍を考案する。

十字槍の特徴は、通常の素槍とは異なる鎌槍と称する十文字型の穂先になっている。

槍の長さは全長が9尺~1丈(約2.7m~3m)、穂は両刃で6~7寸(約18~21cm)、鎌も両刃で4~5寸(約12~15cm)であった。

この鎌槍を活用した宝蔵院槍術は従来の突くばかりではなく、巻き返す、切り落とす、打ち落とす、摺り込む、叩き落とすなど攻防に優れた画期的な槍術となった。

胤栄は天文22年(1553年)師匠の大西木春見から二つの奥義を授けられて宝蔵院槍術を創始する。

宝蔵院槍術は「突けば槍、薙げば薙刀、引けば鎌、とにもかくにも外れあらまし」と謳われるほどであった。

その型は甲冑をつけた時の体勢を想定して重心を低くして構え、槍で突く所は前面・裏面・前胴・太腿などである。

槍の宝蔵院

永禄6年(1563年)30歳になった胤栄は「五畿内一の兵法者」と呼び声が高い友人の柳生石舟斎と共に、伊勢の剣豪大名、北畠具教の館「太の御所」に向かった。

宝蔵院胤栄とは

※上泉信綱像 群馬県赤城神社にて管理人が撮影

そこには塚原卜伝と並び称される剣豪の新陰流の開祖・上泉信綱がいた。

北畠具教の紹介で、胤栄と石舟斎は上泉信綱らと試合をするも、二人とも上泉信綱や弟子に完敗し、その場で新陰流を学ぶことを懇願する。

それから2年後、胤栄は柳生の里に教えに来ていた上泉信綱を宝蔵院に引き留めて直々に新陰流を学び、指南を許す印可を受け、宝蔵院流槍術を大成させる。

宝蔵院流槍術は神道流と新陰流を下地として構成された上に、古武道の要素も取り入れた独自の槍術となったのである。

胤栄は高弟の中村尚政に宝蔵院流の正統を伝え、尚政はそれを弟子の高田又兵衛吉次に継承していく。

高田又兵衛吉次は後に小倉藩に移り、子孫や弟子に宝蔵院流槍術を伝えた。

その後、弟子たちは江戸に出て「槍の宝蔵院」の名は全国に知れ渡っていき、江戸時代後期には槍術の最大流派となった。

宮本武蔵と宝蔵院

宝蔵院胤栄とは

※江戸時代初期の剣豪。宮本武蔵の肖像画(自画像)

慶長9年(1604年)京都の吉岡道場一門を倒した宮本武蔵は、その足で天下一の槍術者として知られる宝蔵院胤栄との試合を望み、奈良の興福寺を訪れる。

しかし、胤栄は84歳と高齢で2代目胤舜はまだ16歳だったために、一番弟子の奥蔵院道栄と試合を二度行い、二度とも武蔵が勝ったとされている。

試合の後、二人は互いに相手を認め合い飲食を共にして、武術や人生について夜を徹して語り明かしたそうだ。

武蔵はそれまで相手を叩きのめし逃げるようにその場を立ち去ることが多かったが、宝蔵院流槍術にはそんな武蔵を変える位の魅力があったのだろう。

後に武蔵は小倉藩で、宝蔵院流槍術の継承者の高田又兵衛吉次と試合をする。

武蔵は木刀、又兵衛は竹の十字槍で、武蔵は二刀を使わずに一刀で立ち合う。中段に構えた武蔵は又兵衛の槍の突きを2度かわすが、3度目の突きが武蔵の股間に入ってしまうのだ。

そこで武蔵は「さすが又兵衛それがしの負けでござる」と言うと又兵衛は「本日は殿の御前ゆえ、それがしに勝ちを譲ったのであろう」と謙遜したとされる。

一説には、この試合は一進一退であったが、又兵衛が突然槍を投げ出して「参った、槍は長く、剣は短い、長い物に七分の利があるにも3試合しても勝てなかった、だから長い物を持っている私の負けだ」と言ったという説もある。

宮本武蔵と宝蔵院槍術の試合によって、改めて天下一の槍術は宝蔵院流槍術だと知れ渡るのである。

胤栄の晩年

慶長元年(1596年)胤栄は75歳で法印に叙せられる。

そこに徳川家康にも影響力のある能の金春家の子息・金春七郎氏勝から宝蔵院槍術を伝授してほしいとの申し出を受ける。

胤栄のもとには門人たちが多くいたが、金春七郎氏勝に対しては自ら槍を取り、宝蔵院槍術の奥義を教えた。

この後、胤栄は仏法と殺生の技を伝える矛盾に悩み、自らが収集していた武具を高弟の中村尚政に与え、後継の胤舜には武芸修業を禁じる。

旧友の柳生石舟斎が亡くなった1年後の慶長12年(1607年)8月26日、胤栄は87歳で死去した。

最後に

宝蔵院胤栄は、同じ奈良に住む剣豪の柳生石舟斎と共に剣聖・上泉信綱に弟子入り志願をした。

天下一の兵法者を目指した二人は研鑽を積み、柳生家は「将軍家指南役」となり、宝蔵院流槍術は「槍の宝蔵院」と称されることになる。

二人のもとには全国から剣術で名を挙げようとする兵法者が集まり、その中にはあの宮本武蔵もいた。

戦国時代の合戦では、刀よりも槍が花形であり、関ヶ原の戦いにおいて猛将福島正則軍で一番の手柄を上げ、徳川家康から称賛された可児才蔵も宝蔵院胤栄の愛弟子だった。

胤栄の実戦的な槍術は、日本の歴史に少なからぬ影響を及ぼしたと言えるだろう。

 

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