伊藤博文 とは?

※晩年の伊藤博文
伊藤博文 は日本の初代総理大臣であり、憲法の公布や下関条約の日本側の全権などに携わってきた、まさしく近代日本における最重要人物の一人です。
芸者大好き博文さん

※伊藤梅子 伊藤博文が亡くなるまでサポートした
伊藤博文(この時は利助だけど統一します)は長州藩の百姓の家に生まれ、下級武士の家に養子として出され、後に吉田松陰が教えている松下村塾に入門し尊王攘夷派の志士として活動を行なっていきます。
実はこの時に松蔭先生の四天王、入江九一の妹であるすみ子という女性を妻にしています。相手の家柄も悪くないしこの妻を連れて暮らしていく…ということはありませんでした。博文はその直後下関の芸者であった梅子に出会いメロメロに。2人の間に子供ももうけ、それと同時にすみ子と離縁。立派な不倫をかましていきます。
すみ子からしてみたら本当に気の毒な話ですが、博文はそんなのは知らんぷり。こんなのは始まりにすぎません。
博文は幕末に井上馨ら五人と一緒にイギリス留学に行きますが、そこで博文はイギリスの文化と英語を学びながら女遊びに明け暮れ、挙げ句の果てにはお金を使い切り強制送還されそうになったり、明治時代に初代兵庫県令になった頃に兵庫の有名な繁華街である福原遊郭に入り浸り梅子にブチ切れられたり、高熱にうなされた時にも芸者をそばにいさせたりと、今では大スキャンダルレベルのことを平気でやってのけていました。
そんな博文のあだ名はほうき。これはヒゲがほうきみたいだからではなく、女が掃いて捨てるほどいたからこう名付けられたそうです。
日本を揺るがす大スキャンダル

※戸田極子
芸者遊びに勤しんでいた伊藤博文でしたが、とある時ついに芸者以外の人に手を出してしまいます。
博文が首相だった頃、日本では古くからの友人であった井上馨によって鹿鳴館外交が行われていました。博文も鹿鳴館でパーティーに参加しますが、この時、博文は同じく明治維新の功労者である岩倉具視の三女である戸田極子にゾッコン。すでに既婚者にも関わらず関係を結ぼうとします。
もちろん、当時の総理がこんなことをしたら新聞は黙っちゃいません。このスキャンダルを取り上げられ博文は総理を辞職する羽目となってしまいました。
日清戦争の時でも女遊び
日本で最初の近代戦争となった日清戦争。この戦争において日本は挙国一致で清に立ち向かっていったのですが、そんな大切な時でも博文は女遊びをしていました。
日清戦争が行われいた時、政府の重要機関は清になるべく近くて鉄道が通っていた広島に移り、博文もこれに同行して広島に滞在していましたが、博文は現地広島の芸者と遊びまくり、下関条約における中国側の全権の李鴻章が襲撃された時には芸者と一緒に寝ていたそうです。
ちなみに、今は広島県の有名銘菓であるもみじ饅頭も彼の女好きから生まれたそうで、ある日博文が宮島を訪れた際、茶屋で働いていた娘の手を見て「綺麗な手だ、焼いて食べたら美味しそうだ」と言ったとか。これを聞いた茶屋の人がこれをヒントにして作ったのが、今のもみじ饅頭に繋がっているとされています。
今そんなこと言ったらセクハラ問題待った無しですが、こんなエピソードもあったんですね。
あまりの女癖の酷さに明治天皇も困り顔

※明治天皇
伊藤博文はこのように総理として目に余るぐらい女癖が酷いもので、その様子はあの明治天皇にも怒られたそうです。
しかし、伊藤博文は明治天皇のお叱りに対して「俺は隠れてコソコソやらずに堂々と女遊びをしているんだ!」と堂々と反論。これには明治天皇も呆れ果てたそうです。
日本のトップである明治天皇の叱りを受けても決して曲げなかった博文ですが、この潔さが逆に国民からは支持を得ていたそうで、1910年に彼がハルビン駅にて暗殺された時には日比谷公園にて盛大な国葬が執り行われ、数えきれないほどの民衆が詰めかけたそうで、同じく長州藩出身の井上馨や山縣有朋と比べるといかに国民から慕われていたのかが伺えます。
女癖が酷くても隠さずに正々堂々とやっていれば、支持してくれる人もいる…というわけではないですけどね。
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