幕末明治

征韓論について調べてみた【西郷隆盛は違った?】

広義と狭義の征韓論

広義と狭義の征韓論

※征韓議論図。西郷隆盛は中央に着席。

征韓論」と言えば、今日では西郷隆盛が明治新政府を下野することになった事件(明治6年(1873年)10月の政変)を多くの人が即座に連想されると思います。

この説は一般的に、武力をもって朝鮮に開国を迫り、かの地を日本の勢力下に従えようとしたものと解釈されているのではないでしょうか。

しかしこの考えは、実はもっと古い時期から唱えられてました。およそ幕末・明治初頭において、既に広く日本の政治課題として唱えられていました。

謂わば西郷で知られる前者は「狭義の征韓論」であり、後者が「広義の征韓論」とでも言うべきものでした。

広義の征韓論」は、幕末期に佐藤信淵吉田松陰の思想の中に見られました。続いて大島正朝木戸孝允らの主張がありました。

これらは、幕末の勝海舟による「欧米に対抗するための日清韓3国の提携構想」を生み、更に戊辰戦争直後には木戸や大村益次郎によって「軍事出兵を背景にした征韓論」として提唱されていきました。

カルトな背景説

ややカルトな言説ではありますが、こうした「征韓論」の背景には幕末の志士たちが信奉した国学や水戸学の影響が背景にあったとする向きがあるようです。

これは「古事記」や「日本書紀」の内容・記述から、古代の日本は朝鮮半島を支配下に置いていたとするもので、これを根拠として朝鮮半島の支配権を自明の物とする思想的背景が、当時の日本の指導者層の一部に存在していたとされるものです。

こうしたイデオロギーの正否を、物理的に証明することは甚だ困難ですが、時の為政者が朝鮮への進出・支配に向けた論拠として、これを政治的に利用した政策とした事は、十分に考えられる事態であったと思います。

明治維新前後の朝鮮と日本の関係

明治維新以前、徳川幕府の時代の日本と朝鮮とは、対馬の宗氏を通して交易・交流がなされていました。

その後、明治維新を経た明治元年(1868)12月、日本政府は朝鮮へ使節を派遣し、その経緯・新政府が樹立された事実を伝えました。加えて、これまで通り
の交流を求め、国書を渡そうとしましたが、朝鮮側はその国書に使用されている文字や印章が幕府時代と異なることなどを理由として、その受理を拒否しました。

明治政府はこの対応に困惑しましたが引き続き交渉を継続し、指摘された部分の削除等を行うなど、朝鮮側の主張を尊重した対応を取りましたが、解決には至りませんでした。
両国が齟齬をきたした根底には、先の日本側から見た朝鮮に対する思想と同じく、朝鮮側が抱えるイデオロギーの存在も大きく影響を与えていていたと考えられます。

※小中華思想における華夷秩序

それは朝鮮の「小中華主義」という思考でした。

古来より中国の王朝を宗主国と仰いで従属してきた歴史を持つ朝鮮は、世界の中心である中華文明を浴した自分達の方が、日本よりも上位であると考え、当時の中国・清王朝を侵略していた西洋に対し、嫌悪感を抱いていました。

しかし開国し、あろうことかその模倣すら始めた日本を快く思わない考えが根底にありました。

征韓論の高まり

こうした両国の関係の中、明治6年(1873年)5月、釜山の日本公館の門前に、日本を侮蔑した記述の文書が掲げられるという出来事が発生し、日本では武力行使を辞さないとする「征韓論」が高まりました。

但し、この出来事にも諸説があります。朝鮮政府が日本公館の門将や小通詞に伝達した伝令書という文書内に、「近ごろ彼人の所為を見るに無法の国と謂ふ可し」という、日本を侮蔑するかのような文言があったことは事実です。

しかし、実はその文言は密貿易を行っている日本人・商人に対して発せられた警告文書のものであり、日本国に向けたものではなかったとする説です。

当時、朝鮮との交渉を進展させられずにいた外務省が、折からの反日的な朝鮮政府の態度と併せ、先の文言から拡大解釈して平和的手段では事態が収拾できないとし、居留民を保護する名目で軍の派遣を求める案を作成、当時の政府方針・政策を決定する立場の太政官に提出したと言うものです。

世論の流れを斟酌した官僚の判断によって、事件が大きくなったとする説ですが、時代の空気を反映したことで問題が先鋭化したという視点はあながち的外れではないと思われます。

征韓論と遣韓論

※副島種臣 wikiより

こうして問題化した朝鮮政策について、外務卿の副島種臣は朝鮮の日本に対する非礼を訴え、参議の板垣退助も即時出兵の強硬論を主張しました。

他の参議もこれらの意見に賛成、これが朝鮮に対し武力を用いるべきとした「征韓論」でした。政府にあってこの意見に唯一異議を唱えた人物が西郷でした。

西郷の主張は、「まず責任を持った全権大使を軍を伴わずに朝鮮へ派遣し、朝鮮政府を説得する」というもので「遣韓論」というべきものでした。続けて西郷は、その全権大使には自らが当たると申し出ました。

これを受けて板垣ら強硬な征韓論者もこの案に同意し、外務卿・副島も一旦は全権大使は自らが務めたい旨を主張しましたが、最終的には西郷にこれを譲りました。こうして明治6年(1873年)8月17日、政府閣議は西郷を遣韓大使とすることを決定し、太政大臣・三条実美が明治天皇に奏上、裁可されました。ただし、派遣の実施は、当時欧米を視察中だった岩倉具視、大久保利通、木戸孝允ら使節団の帰国後とされました。

果たして9月に帰国してこの報告を聞いた岩倉らは、内政を優先することを主張し、一旦は閣議決定までされた西郷の派遣を反故にしました。
これに西郷、板垣らが反発して下野、明治政府は分裂することになりました。

この後、政府は翌・明治7年(1874年)に台湾出兵、翌々年の明治8年(1875年)には件の朝鮮に対して挑発行動を行い、武力衝突を誘発させました。

これらのことから、西郷らの政府からの追放を画策した岩倉・大久保らが、自らの政権掌握のために政治利用したものが征韓論であり、あたかも西郷が武力の行使を前提として、その主張をしたかのような風説が流布されたものだと考えられます。

 

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