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玉川上水 はなぜ作られたのか? 「江戸の発展に貢献」

かつて江戸の町を潤わせた上水は、今も一部が利用されている。
42kmという長大な玉川上水のことだ。江戸時代には6つの上水(上水道)があり、江戸の六上水と呼ばれたが、一部とはいえ現在でも利用されているのは玉川上水だけである。その工事には不明な点も多く、当時の技術でいかにしてこれほどの工事を成し遂げられたのか不明な点も多い。

今回は玉川上水がどのような事情で作られたのか、どういった工事だったのか調べてみた。

江戸の発展と共に

玉川上水
※江戸図屏風に見る、初期の江戸

徳川家康が江戸に入城したのは、1590年、豊臣秀吉の命により関東地方を平定する拠点として開発するためであった。当時の江戸は南東部がほとんど湿地であり、海岸線は江戸城の近くまであったという。そもそも「江戸」という地名は「」が川や入り江といった水場を意味し、「」は入り口や港町の名称に付くことが多い。つまり「川の入り口」「川のある港」といった意味がある。由来は諸説あるが、実際に江戸時代以前の江戸の町は規模も小さい港町だったようだ。

しかし、その後の急速な整備により江戸城の南東は運河を配しながら埋め立てられ、都市としての規模を拡大させていった。一方で、埋立地では井戸を掘っても海水が出る有様だったので、上水の整備は急務とされた。

4代将軍家綱の時代には多摩川の水を江戸へと送る上水の建設が計画されたのである。

玉川上水 工事の始まり

玉川上水
※立川市内を流れる玉川上水

工事の期間についても二つの説がある。
徳川家の公式記録である『徳川実記(とくがわじっき)』には、承応2年1月に麹町(現新宿区)にて町人が八王子にある玉川(多摩川)の水を江戸に引くという計画を提出し、許可が下りたと記されている。許可に伴い資金も渡したとあり、翌、承応3年6月には「玉川上水成功せし」とのことなので、わずが1年半で完成したと分かる。
一方で、承応元年(1652年)に工事が開始されたという記録もあるが、これは工事から150年近く後に書かれたものだ。

どちらにせよ、開始時期についてはそう大きな違いはない。

しかし、工事そのものについてはどのような工法が取られたのかといった技術的な記録がないのが謎である。

難航

玉川上水
※羽村堰近くに建つ玉川兄弟像

計画では、庄右衛門、清右衛門の兄弟が工事の担当となり、取り仕切ったとされる。武蔵国西部の羽村で多摩川の水を取水し、武蔵野を横断して四谷の「水番所(管理所)」まで水を引き、そこから江戸の町に分配するようになった。

だが、そのルートに至るまでに工事は二度の失敗をしている。
最初に掘ったルートでは、水が浸透しやすい関東ローム層と呼ばれる地層に当たってしまい、変更することとなった。まるで水を食うように地面が水を吸収するため、その地は水喰土(みずくらいど)と呼ばれ、現在の玉川上水のルート近くにも「水喰土公園(みずくらいどこうえん)」という公園が整備されている。しかし、この責を問われた役人が処刑されており、携わる者としては立場的にも、かなり厳しい工事だったことが分かる。

さらに2度目のルートでは途中で岩盤に当たって失敗。一時は工事そのものを中止する声も上がったが、それ以上に上水の必要性が高かったために工事は続けられた。

完成


※羽村取水堰と多摩川

最終的に羽村を基点としたルートで決定し、羽村に堰が設けられた。
しかし、謎なのはそこから完成までの過程である。

まず、羽村から四谷の42kmにおいては標高差が、わずか100mしかない。単純計算で1mあたり2.5mmである。そのため、100mでの高低差は21~25cmほどだったといわれる。この厳しい条件において水がとどまることなく流れるようにできたのは、事前の測量が正確だったということだ。しかし、どのような測量具を使用したのかは不明で、開削工事も農具などの身近な道具を使っていたようである。当時、鉄はまだ高価だったため、道具の多くは木製だったともいわれた。

また、工事計画も単純に上流から始めるのではなく、効率を重視して最初に全工事区間を測量し、その後に工事区画を分けた後に大人数で一気に掘り出したと考えられる。

この工事の功績により庄右衛門、清右衛門の兄弟は「玉川姓」を与えられ、今では玉川兄弟として世に知られるようになった。

その後の玉川上水

玉川上水
※広重「名所江戸百景」に描かれた玉川上水(玉川堤の花)

玉川上水は1948年に太宰治が愛人と共に入水自殺したことでも知られている。
しかし、現在の玉川上水の水量は当時よりもぐっと減っている。その訳はこの上水の歴史と地理に関係していた。明治31年、現在では高層ビルが林立する西新宿に淀橋浄水場が完成する。日本発の近代的な水道施設であった。

戦後になり、新宿周辺も都市化が進むことになり淀橋浄水場は閉鎖。現在は、羽村から(村山貯水池)多摩湖を経由して、東村山浄水場へと至る。多摩川の水が都心部まで引かれているという点では江戸時代と同じだが、そのルートは大きく変わってしまった。

しかし、かつてのルートにも水流が復活しており、一部の区間だが当時を思わせる水の流れが再現されている。そのため、下流に見られる玉川上水の水量は抑えられているのだ。

最後に

玉川上水がいかに大規模で難易度の高い工事だったのかがわかった。
時代の流れとはいえ、現在ではその名残りもわずかというのは悲しいものである。だが、その痕跡は景色ばかりではない。
玉川上水により運ばれてきた水の一部は、淀橋で神田上水に流れ込むようになっていた。その神田上水は江戸の中心部へと向かい、いくつもの橋をくぐる。その橋のひとつが「水道橋(東京都千代田区)」である。

このように地名としても玉川上水は生き残っているのだ。

 

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