安土桃山時代

柳生宗矩 ~剣豪から大名となった武将

徳川への仕官

柳生宗矩

※柳生宗矩木像

柳生宗矩(やぎゅうむねのり)は、徳川将軍家の兵法指南役を務め、大和柳生藩初代藩主となった人物です。

所謂剣豪と称された人物としては、史上只一人と言える大名の地位まで上り詰めた存在でした。

宗矩は、元亀2年(1571年)に大和の柳生庄の領主であり、剣聖・上泉信綱から新陰流の印可状を伝えられた柳生宗厳(石舟斎)の子として生まれました。

新陰流の伝承者・宗厳を父に持った宗矩は、その薫陶を受けて自らも剣術に励んだものと思われます。その証左として文禄3年(1594年)5月に父・宗厳が、黒田長政の仲介を受け徳川家康に招聘された結果、徳川に出仕することななったことが挙げられます。

その御前で、宗厳は自らの新陰流の極意「無刀取り」を披露、この技に感じ入った家康が宗厳に出仕を求めた際、替わりに推挙を受けたのが、宗矩であり200石で家康に仕えることとなりました。

しかし、新陰流二世の剣豪として当時天下無双といえた宗厳に対する碌としては、200石は決して高い評価とは言えず、宗矩自身も更なる地位と評価を望んだであろうと思われます。

徳川秀忠の剣術指南役へ

慶長5年(1600年)に家康が上杉討伐に会津へと出陣した際には、宗矩もこれに従軍しました。

この道中、石田三成らが挙兵したことを知った家康は、宗矩に柳生庄へ戻ることを命じました。宗矩はこの命を受け。同地域の筒井氏や大和の国人らと共に三成ら西軍の攪乱を行ったとされています。

この後、家康に従って関ヶ原の戦いにも加わりました。戦後、先の武功から父の代に召し上げられていた大和柳生庄2,000石を領し、旧領を回復することに成功しています。

柳生宗矩

※徳川秀忠

さらに翌、慶長6年(1601年)に徳川秀忠の兵法(剣術)指南役に任ぜられたことで1,000石の加増を受け、計3,000石を領する大身の旗本となりました。

因みに父・宗厳は、慶長11年(1606年)に死去する前に、新陰流の三世を孫の利厳(宗矩の甥)に相伝し、柳生宗家も継承させました。

これにより、宗矩は領地は得てはいたものの、柳生の分家となり、加えて利厳は尾張藩に出仕していますが剣術以外の諸役を固辞する姿勢を貫き、剣のみを生業とした事などから、二人の間には確執があったのではないかと見る向きもあるようです。

剣豪から大名へ

宗矩は、慶長20年(1615年)の大坂の陣でも将軍・秀忠に従軍しました。

この折、秀忠を襲った豊臣方の武者(人数は不詳)を瞬く間に切り伏せ、秀忠を護ったと伝えられています。実際に宗矩が人を斬ったとされているのは、この時のみとなっています。

宗矩は、元和7年(1621年)に、後に3代将軍に就任する徳川家光の兵法指南役となりました。

時代はようやく戦国から徳川幕府の治世に移行していき、将軍となった家光の信任を得た宗矩は、寛永6年(1629年)に従五位下に叙位され、但馬守に任ぜられました。
続いて寛永9年(1632年)3,000石の加増を受けた後、初代の幕府惣目付(大目付)に就任、諸大名の動向を監察する立場となり、大いに恐れらえたと伝わっています。

その目付としての働きも評価された宗矩は、遂に寛永13年(1636年)8月に4,000石の加増を受け、計1万石を領する事となり、大名として大和国柳生藩の藩祖となりました。

この出世は、剣豪と称された人物としては、史上只一人と言えるもので、新陰流宗家を継承出来なかったにも関わらず、徳川将軍家の御留流とされたその剣は「江戸柳生」と呼ばれて多くの門弟を抱えることになりました。

宗矩とその嫡子・三厳十兵衛)は、そうした地位から講談や時代劇の題材とされて、柳生宗家よりも知名度の高い人物となっていきました。

宗矩は、正保3年(1646年)3月、享年76歳で江戸にて死去しました。

柳生宗矩

※芳徳禅寺境内、柳生一族の墓所にある宗矩の墓 wikiより

「活人剣」の提唱

宗矩の兵法思想は、著作である「兵法家伝書」において現代にも伝えらられています。

この書では、実戦での兵法本来の思想だけでなく兵法はかくあるべきという哲学的な意味を内包している点が特徴とされています。

有名な「活人剣」の提唱がなされたこの思想は、

「本来的には忌むべき武力を以て、一人の悪人を殺すことにより、多くの人を救うこととなり『活かす』ための有効な手段たり得る」

と提唱したもので、長きに渡った戦国時代が終焉を迎え、太平の世において剣術とどう向き合うかを問うたものとして、剣術だけでなく他の武術にも影響を与え、「」から「」への先駆けとなったものと位置付けられ、今日にも受け継がれています。

関連記事:
【新陰流三世】柳生利厳について調べてみた
柳生石舟斎の無刀取りの秘技【岩を切った伝説】

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社会人になって「信長の野望」に嵌まり、すっかり戦国時代好きに。
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