江戸時代

小栗仁右衛門 ~「柔術と剣術を合わせた小栗流の祖」龍馬も学んだ剣

小栗正信(仁右衛門)とは

徳川家康に小姓として仕え幕臣・旗本となった小栗 仁右衛門(おぐり にうえもん)は柳生石舟斎柳生宗矩に学び、柳生新陰流に組討ちという和術(柔術)を加えた「小栗流」という新たな剣術を考案した剣豪である。

剣術の裏技「武者取り」「甲冑伝」を編み出した剣豪・小栗仁右衛門について迫る。

出自

徳川家康の三河譜代の家臣の中に、合戦の度に目覚ましい活躍をして「またまた一番槍はあいつだ!」という意味で「又一」という名を賜った勇猛果敢な武将がいた。

その名は小栗忠政という。

家康のために命を投げ出し、数多くの武功を挙げた小栗忠政の次男として天正17年(1589年)生まれたのが、小栗正信(※通称 仁右衛門)である。

小栗仁右衛門

※小栗上野介(小栗 忠順)

小栗家の末裔には、幕末に幕臣として活躍した小栗上野介がいる。

仁右衛門は、父・忠政と同様に家康の小姓として仕え、後に御膳番を務める。若い頃から剣術を好み柳生石舟斎から「柳生新陰流」を学んでいた。

元和2年(1616年)父・忠政が亡くなり、家督は長男が継ぎ、仁右衛門は武蔵国足立郡に分知550石をもらって旗本になった。

旗本になってからは江戸柳生の将軍家指南役・柳生宗矩と、その門下・出淵盛次のもとで柳生新陰流を学んだ。

組討ち

仁右衛門は慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに参陣。

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣と、翌年の大坂夏の陣で武功を挙げて750石に加増されたが、大坂夏の陣で敵の首級を「組討ち」で挙げたことで、剣術の他に戦では「組討ち」が重要で組討ちを強くしなければと思った。

組討ちとは「戦場で敵と組み合って討ち取ること」であり、組討ちが強くなるには「柔術」を覚える必要があると考えた。

小栗仁右衛門

組内のイメージ ※前九年合戦絵巻

柳生新陰流の奥義である「無刀取り」は柔術とも関連が深く、仁右衛門は新陰流の中にある技を参考にして「組討術」を考える。
そして、同門の駿河鷲之助が長崎奉行をしていた時に、仁右衛門は長崎に出張している。

その時に長崎にいた医師の秋山四郎兵衛が中国から持ち帰った「揚心流」と出会い、その中国武術を参考にして駿河鷲之助と協力して「組討術」を考案した。

小栗流

仁右衛門は組合・組討45ヶ条を創案し、それら柔術を「武者取り」「甲冑伝」とした。

元和2年(1616年)に柳生家の許可を得て、表裏72ヶ条をもって新流をたて「小栗流」と称した。

小栗仁右衛門

小栗流和の固技

刀術を表とし、和術(柔術)を裏とし、他に槍・抜刀・薙刀・小太刀・棒・手裏剣・縄・水馬・水泳・騎射・軍法と、何でもアリの総合武術である。
元和3年(1617年)には二代将軍・徳川秀忠の許可を得て、門人を取り立てた。

小栗流は厳しい修業を課したことでも有名で、例え実子であろうとも技が未熟であれば相伝させず、それで家が絶えることもいとわないというほどであった。

これは仁右衛門が合戦という修羅場をくぐり抜けてきたことが関係し、まだこの時代はいつ合戦になってもおかしくないという時代だったからだ。

厳しい修業でありながら小栗流の門弟は3,600人を超えるまでに増えて、元和9年(1623年)には土佐藩主・山内忠豊に招かれて小栗流を教えている。

土佐藩ではたった1人、朝比奈可長にだけ極意を伝授し、そこから「小栗流」は土佐藩の流儀として栄え、上は藩主・家老から藩士・庶民に至るまで広まり、幕末の英雄・坂本龍馬も学び、目録を伝授されている。

3,600人を超す門弟の中で、仁右衛門が自筆の伝書を授けたのは、たった3人だけだったという。

極意秘伝を伝授される者は「武士であること」「心技両面において優れた者」であり、その中からたった12名と限定された。しかも極秘に伝授するという他流派にはない形式が大きな特徴である。

慶安御前試合

小栗仁右衛門

徳川家光

慶安4年(1651年)、三代将軍・徳川家光が病に倒れた。

そこで武芸好きな家光のために、諸藩から武芸の達人が江戸城に集められて武芸を披露する「慶安御前試合」が開催されることになった。

仁右衛門は当時60歳という高齢であったにもかかわらず、幕臣の中より選ばれて武芸を披露し、家光を喜ばせその実力は高く評価されたという。

門弟の中には儒学者・兵学者の山鹿素行もいて、彼は仁右衛門から「鞠身之やわら(小栗流の通称)」を伝授されて奥義を受けた。

山鹿素行

これは身体を鞠のように柔らかく・軽く・弾むような状態に保ち、どこから敵に襲われても変幻自在に対応できる技である。

仁右衛門は寛文元年(1661年)73歳で死去。

現在小栗流和術の伝承が残っているのかは不明であり、分派の「鞠身流」は最近まで伝承されていた。

おわりに

徳川家の旗本だった小栗仁右衛門は、柳生石舟斎・柳生宗矩から「新陰流」を学び、大阪の陣で首級を挙げた経験から戦場において実戦向きな「組討ち」の重要性を見いだした。

同門の友人と長崎にいた時に中国武術と出会い「新陰流」と「中国武術」を融合した、独自の「小栗流」を創始する。

心身一体の精神性と厳しい修業で有名な「小栗流」は3,600人を超える門弟を集めて栄えたが、小栗仁右衛門はたった3人にしか正統な継承者を作らず、継承者になる基準が高かったためなのか、後世に断絶したという。

 

アバター

rapports

投稿者の記事一覧

日本史が得意です。

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 「徳川家に不幸をもたらした」 妖刀・村正
  2. 大岡越前は本当に有能な人物だった【町奉行から大名に大出世】
  3. 幕末は戦国時代同様の下剋上状態だった? 将軍や藩主さえも殺される…
  4. 一戸三之助 「戦国乱世に生まれていれば…武芸十八般を究めた剣豪」…
  5. 板倉勝重 ~内政手腕のみで幕府のNo.2に出世した名奉行
  6. 土井利勝は徳川家康の隠し子だったのか?
  7. 日本人は昔から「オカルト好き」?江戸時代に流行った「怪談話」を調…
  8. 奥平信昌とは ~長篠の戦いに貢献した徳川家康の娘婿

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

手作り入浴剤を台所にある材料で作る方法

「塩・シュガー」台所に何気に置いてある材料を使い「自己流の入浴剤」が作れるとしたら?!湯船の…

中世ヨーロッパで行われていた動物裁判 【動物の悪魔化、豚や虫を裁く】

動物を裁く動物裁判とは、12~18世紀までヨーロッパ各国(特にフランス)で行われていた裁判であり…

松平信康は切腹。殺された瀬名は怨霊に?『松平記』より築山殿事件をたどる【どうする家康】

天正7年(1579年)8月29日、徳川家康(とくがわ いえやす)の正室・築山殿(つきやまどの。瀬名)…

恐竜進化の証人 原竜脚類 「初期の恐竜の代表格」

恐竜進化の証人史上最大級の生物として中生代の地上を支配した竜脚類だが、当然ながら最初から…

7000年前の墓で発掘された少女が物語る恐ろしい事実とは?

新石器時代の墓1995年、西安の東約49キロにある小さな村で、考古学者がある発見をした。…

アーカイブ

PAGE TOP