戦国時代

戦国武将に影武者はいたのか調べてみた

下克上や暗殺、さらには身内による謀反なども当然のように行われていた戦国時代。
各国の武将たちは、敵を欺いたり味方を掌握するため、自分とよく似た風貌や服装の人物を身代わりとさせた。

影武者である。

そのため、有名な武将には多くの影武者説が残っており、真相解明のための考察もされている。

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影武者の始まり

影武者

影武者の話は、古くは平安時代から残っていた。

平将門には6人の影武者がいて、将門を討とうとした藤原秀郷が困惑したとする「七人将門」の話が伝わる。室町時代に書かれた『俵藤太物語』では「将門と全く同じ姿の者が六人いた」といわれており、同じ時期に書かれた『師門物語』では「同じ姿の武者が八騎いた」とあるのだ。

この七人の影武者伝説の背後には、「妙見信仰(みょうけんしんこう)」があると考えられる。妙見信仰とは、北斗七星・北極星を神格化した妙見菩薩を祀る信仰のことだ。将門も合戦の折に妙見菩薩に助けられて以来、妙見菩薩を信仰するようになったといわれている。さらに平安時代に怨霊思想が広がるとともに、この妙見の修法が盛んに行われ、中世になると千葉氏・相馬氏がこの妙見菩薩を信仰していた。この千葉氏・相馬氏こそが平家一門であり、始祖を将門としているのだ。

将門と妙見菩薩、そして、北斗七星との関連から七という数字が影武者の人数になったと思われる。

武田信玄の影武者


※武田信玄(左)・上杉謙信(右)一騎討像 長野市八幡原史跡公園

武田信玄に影武者がいたというのも有名な話である。

信玄の影武者として有名なのは、弟である信廉(信綱)が、信玄の死後も影武者を務めたと伝わっている。北条氏の使者が信玄の死を確認に躑躅ヶ崎館(武田氏の本拠)に訪れた際、この信廉扮する影武者を見て、信玄は健在だと報告したという話しが残っている。兄弟であれば、顔が似ているのも当然だ。

さらに、『甲陽軍鑑』によれば、信玄は遺言で「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事」や、勝頼に対しては「信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」を言い残し、重臣の山県昌景馬場信春内藤昌秀らに後事を託し、山県に対しては「源四郎、明日は瀬田に(我が武田の)旗を立てよ」と言い残したという。

事実、信玄の死後に家督を相続した勝頼は遺言を守り、信玄の葬儀を行わずに死を秘匿している。こうした資料からも、信玄は生前から自らの死を敵に悟らせないために影武者を立てていた可能性は大きい。

川中島の合戦上杉謙信と渡り合った武田信玄も、実は影武者の信廉だったとも言われ、同じく川中島の戦いで討ち死にした信玄の次男・武田信繋も影武者を演じることがあったとされており、戦場では複数の影武者が武田信玄として戦ったともいわれている。

木阿弥


※筒井順昭画像

戦国時代の大和国の大名、筒井順昭(つついじゅんしょう)は、大和一国をほぼ手中に収め、筒井氏の全盛期を作り上げた。しかし、わずか2歳の嫡子・藤勝(順慶)を残し、死去してしまう。

順昭は死の間際に家臣を集め、子の順慶への忠誠を誓わせるとともに、敵を欺くため、自分と良く似ている木阿弥(もくあみ、黙阿弥とも)という奈良の盲目の僧を影武者に立て、3年間(資料によっては1年間、あるいは子の順慶が成人するまで)死を隠すことを命じた。一説には、順昭の死後に家臣たちが順慶を守りつつ、対外的には順昭の死を隠すべく影武者を仕立てたともいわれる。

どちらにせよ、木阿弥は身代わりの間、贅沢な暮らしができたが、順慶が5才になり家督を継げるようになったことで、木阿弥の役目は終わった。そうなると木阿弥は御用済となり、奈良に戻されたという。

一時にせよ、大名の身分を名乗れていたのが、また元の僧に戻ってしまった。

このことから「元の木阿弥」という諺が生まれたといわれる。

徳川家康


※徳川家康肖像画

戦国武将の影武者の話において、徳川家康の影武者の話も有名だ。

家康は若くして暗殺され、「世良田二郎三郎元信」というよく似た男が影武者として家康に成りすましていたという話である。しかも、その時期は1560年(永禄3年)12月4日、織田信長と戦うべく尾張に向けて侵攻を開始したが、その途上である尾張守山において12月5日に暗殺されたといわれる。江戸幕府を開くどころか、関ヶ原の合戦よりも40年も前のことだ。

そして家康の死を秘匿し、その身代わりとして立てられたのが、世良田二郎三郎元信であるとする。当時の松平氏の三河は、信長と今川氏という両大名によって挟まれていた。家康の長男・信康はまだ3歳の幼児である。そのような幼児が信長や今川氏と渡り合えるはずがないと考えた家臣団は、信康が成長するまでは、替え玉である世良田二郎三郎元信に松平氏の家督を代行させたというのである。

しかし、この話は当時の資料によるものではなく、1902年(明治35年)4月、村岡素一郎が『史疑 徳川家康事蹟』という書籍を出版して家康の影武者説を唱えたことにより広まった。江戸時代を通して徳川家康は神君とされていたため、その出自を疑う者はいなかったからである。

しかし、入れ替わりがあったということを裏付ける同時代史料は徳川家関係はもとより、他家や一般の文書にも存在しないなどの矛盾点が多いために信憑性は極めて低い。しかし、発想そのものが面白いためにその後もいくつかの「影者者・徳川家康説」が広まった。

最後に

戦国時代の影武者は、顔写真などなかったからこそ成り立っていた。また、顔を知るものでも戦場では鎧兜で身を固めれば、余程親しくない限りは偽者だとは見破れないはずだ。

何より、記録に残らないからこそ「」なのである。

もしかしたら、我々の知る歴史上の意外な人物も、影武者だったのかもしれない。

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