戦国時代

武田信玄の命を縮めた一発の銃弾

鳥居三左衛門(とりいさんざえもん)

武田信玄の命を縮めた一発の銃弾
天文12年(1543年)大隅の国、種子島に漂着したポルトガル船がもたらした火縄銃、戦場でのその威力に気付いた者たちは、争ってこれを手に入れようとします。器用で研究熱心な日本の刀鍛冶は程なく完コピ銃の量産体制に入りました。

この火縄銃が日本各地へ広まって行く中で、これも器用で研究熱心な使い手たちはどんどん腕を上げ、射手として異名を取る者が続出します。鉄砲集団として知られた根来や雑賀の衆が多く、まず挙げられる雑賀孫一を始め蛍・小雀・下針(さげはり)・鶴頭(つるのくび)という異名を持った者が続きますが、これは彼らの得意技から取られた異名です。

そんな鉄砲の先進地紀州から離れた三河の国野田城(愛知県新城市)にも、鉄砲の名手と呼ばれた男が居ました。徳川の武将城主菅沼定盈(すがぬまさだみつ)に仕えた鳥居三左衛門で、歴史に名を残すような者ではありませんでしたが、その名字から徳川松平家の譜代家臣、鳥居一族に列なる者であると考えられます。

野田城の攻防


元亀4年(1573年)“甲斐の虎”と恐れられた武田信玄は、西上作戦の終盤戦として野田城に襲い掛かります。

藪の中の小城、一気に踏みつぶせ」と攻め寄せる武田の大軍2万5千を相手に、菅沼定盈は城兵わずか400で、三方ヶ原の敗戦から立ち直れない徳川の援軍も望めない中、懸命の抵抗を見せます。

力攻めを続けても味方の損傷が増えるばかりと考えた信玄は、甲斐の金山から掘り手の金山衆(かなやましゅう)を呼び寄せ、水脈を切って城内の井戸水を枯らす作戦に出ました。

城中に在った三左衛門は「このままでは城は落ちる、その前になんとかせねば」と焦っても良い考えも浮かばないまま状況は悪化するばかりです。

城が囲まれてからすでにひと月が経ち、その日もこれと言った合戦も無く暮れようとしていました。

笛の音


日の暮れた野田城にその夜も笛の音が流れていました。“小笛芳休”とあだ名される、伊勢国山田(三重県伊勢市)出身の村松芳休(ほうきゅう)という笛の上手が城内に留まっていたのです。このあたり平家物語一ノ谷の戦いの敦盛を思い出させますが、菅沼家に伝わる『菅沼家譜』にも書かれていることです。

昼間の戦いに疲れた敵味方の将兵が、共にその笛の音に聞き入っていました。「この笛ももう長くは聞けぬであろう」三左衛門が思いに耽っていた時、城のそばで何やら気配がしました。目をやると城の堀の向こう側、崖の上に白いものが見えます。「何じゃ?」良く見ると竹を数本立てて周囲に紙を張り巡らした、にわか作りの陣幕のように見えます。「あの中で芳休殿の笛を楽しもうと言うのか、敵の城近くまで来るとは武田にも豪気で風流な奴が居たものじゃ。しかしわざわざ陣幕を用意させるとは位のある者なのか」しばらく伺っていましたが人の気配はしません。

その場を後にしようとした三左衛門は、気を取り直し考えます。「城は明日にも落ちる、名の有る武将なら一人でも討ち取って於けば味方の助けになる」持っていた鉄砲で陣幕を支える竹に狙いを定め時を待ちました。待つ事しばし堀の向こうに人の気配がし、耳をすますと野太い声が聞こえます。「明日が最後と覚悟の笛の音じゃ、当世の上手でこれに過ぎたる者はおらぬであろう」上に立っての物言いに慣れ切った人間の声です。

まさか信玄?」そう思いながらも三左衛門は、陣幕の中心に狙いを定め引き金を引きました。夜の静けさの中響き渡る一発の銃声に辺りは騒然とします。「何事じゃ!夜討ちか?」喧噪の中で三左衛門は一つの叫び声をはっきりと聞き取りました。「お館様!」三左衛門は自分の撃った銃弾が誰に当たったのかを確信しました。「儂は信玄公を撃ったのじゃ

野田城落城、武田軍撤退、信玄の死

この時三左衛門の放った銃弾は信玄の左頬を貫通したとされます。

しかし敵の大将に重傷を負わせたものの戦況は好転せず野田城は陥落、城主菅沼定盈は武田軍に降伏し城を武田勢に明け渡しました。武田軍は西上作戦の途中でしたからそのまま西へ進むと思われたのですが、なぜか自領甲斐の国へ引き返してしまいます。

このころから信玄は持病の悪化によりたびたびの喀血と高熱に苦しめられ、そこへ三左衛門が放った銃弾によって重傷を負ったこともあり、これ以上の進軍は無理と判断したのです。三河の国、長篠(愛知県新城市長篠)の鳳来寺でしばらく様子を見ていましたが、甲斐へ戻ることに決めます。しかしその途中三州街道上の信濃の国駒場の宿で、信玄は享年53歳で亡くなりました。

一般には信玄の死因は肺結核や胃がん、日本住血吸虫に感染したためとされており、特に信玄の侍医はその臨終時に腹部が異常に膨れていたと証言していますが、これはこの寄生虫が引き起こす腹水が溜まる症状を思わせます。三左衛門の銃弾は致命傷ではなかったかもしれませんが、信玄の病状を悪化させたのは間違いないようです。

三左衛門のその後

三左衛門のその後については残念ながら伝わっていません。ただ野田城と向き合い城から80m離れた崖の上には、信玄が陣幕を張り笛の音に耳を傾けたとされる『笛聞場』が残り、野田城側には三左衛門が信玄を狙った『信玄公狙撃場』が今に伝わっています。

また三左衛門が使った火縄銃は『信玄砲』と名付けられ、木部は失われたものの残された銃身が新城市宗堅寺に伝わり、現在は設楽原歴史資料館に保存されています。

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