安土桃山時代

今川氏真【子孫は徳川の旗本として存続していた】

子孫も続いた今川家

今川氏真【子孫は徳川の旗本として存続していた】

※今川氏真(1538-1614)の肖像画

今川氏真(いまがわうじざね)は「海道一の弓取り」とも称された戦国大名・今川義元の嫡子ですが、今川家を滅亡させた暗君の印象が強い人物ではないかと思います。

2万余の軍勢を擁しながらも、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで織田信長に敗れた父・義元の後を継ぐも、その領国を失って戦国大名家としての今川家を自己の代で潰してしまった事は事実ですが、77歳まで生きた上、子孫は徳川の旗本として存続しました。

数奇な運命を辿ったその生涯を調べてみました。

甲相駿の三国同盟

氏真は天文7年(1538年)に生まれています。

信長が天文3年(1534年)、豊臣秀吉が天文6年(1537年)、徳川家康が天文11年(1543年)生まれなので、ほぼ同年代の人物と言えます。
しかも、今川家といえば足利将軍家の庶流に当たる家柄で、駿河・遠江・三河の三国を統べており、前述の三英傑などよりも遥かに高い地位にありました。

氏真は17歳の天文23年(1554年)に北条氏康の長女・早川殿との婚儀を迎え、これにより今川氏は武田・北条と甲相駿の三国同盟が成立、西の織田氏へと侵攻の矛先を向けるようになりました。

義元の死と家康の離反

氏真は21歳の永禄元年(1558)頃には父・義元より家督を継いで、駿河・遠江の領国の管理を実施したようです。

義元が隠居をしたのは、新たに獲得した三河とその西の織田領への侵攻に注力することを企図していたためと考えられています。

※『尾州桶狭間合戦』

しかし、冒頭の通り義元は桶狭間の戦いで信長に討たれてしまいます。これにすぐさま反応したのが家康でした。
岡崎城を手に入れた家康は西三河を勢力圏として、永禄5年(1562)には織田と同盟を結びました。これに倣って今川を離反する勢力も増え、永禄7年(1564年)に吉田城が陥落し、今川勢は三河から追われることになりました。

続いて遠江にもこの動きは広がり、更にこれを好機とみた回の武田信玄が家康と密約を結んで永禄11年(1568)、駿河への侵攻を始めました。

領国を追われ流浪

氏真は、信玄に居城・駿府城を落とされ、家臣の朝比奈泰朝の守る遠江の曳馬城へと落ち延びました。

このとき遠江へは家康が侵攻しており、曳馬城は徳川勢が包囲します。ここで信玄は密約を無視してこの遠江へも兵を進る動きを見せたことから、家康は北条氏政を介して氏真との和睦を成しました。

家康は曳馬城を手に入れることと引き換えに、駿河を武田から奪還した暁には、これを氏真に返還するという約定を交わしました。

結局この後、氏真が駿河を取り戻すことはなく、この時領国をすべて失ったことで自らの正室の実家である北条氏の下・伊豆へと逃れました。しかしここも、北条が武田と和睦したことから元亀2年(1571年)に追われ、この後浜松の家康の下に移り、さらに天正3年(1575年)には京へと移りました。

京では父・義元を討った信長と対面し、信長に所望されると公家衆に交じって蹴鞠を披露したとされています。

武田との戦に参加

同天正3年(1575年)に氏真は、織田・徳川連合軍と武田の長篠の合戦において、三河牛久保城で後詰を務めました。

合戦の後には駿河の牧野城(諏訪原城)攻略戦にも加わり、この城が陥落すると家康に牧野城主を任されました。
このとき氏真は信長によって、武田家の調略を命じられますが果たせず、結果1年余で城主を外されて、再び浜松へと戻りました。

この後、天正10年(1582)に織田氏が武田氏を滅ぼした折に、家康は信長に対して駿河を氏真に与えてはどうかと進言したと伝えられています。

かつての氏真との約定を念頭に置いたものだと考えられますが、信長はこれを認めず却下したとされています。

今川氏の存続

※『集外三十六歌仙』の今川氏真

この後、秀吉の時代には氏真は京にあり古典の研究などを行っていたとされています。

そして慶長3年(1598年)には、氏真の次男である高久が、第二代将軍・徳川秀忠に仕えて、高家・品川家を興すことになりました。

氏真は、慶長19年(1615年)まで生きて江戸で死去、享年77の天寿を全うしました。

尚、今川家は氏真の孫である直房が幕府の高家・今川家の祖となって、以後も代々続いていきました。

因みに、家康は氏真の死の翌年元和2年(1616年)に亡くなっており、奇しくも家を失った氏真と天下人という対照的な生き様の両者でしたが、程同じ長さの生涯を送りました。

 

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学生時代まではモデルガン蒐集に勤しんでいた、元ガンマニアです。
社会人になって「信長の野望」に嵌まり、すっかり戦国時代好きに。
野球はヤクルトを応援し、判官贔屓?を自称しています。

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