戦国時代

山県昌景【元祖赤備えを率いた最強武将】

山県昌景 赤備えの武名

山県昌景

※「甲越勇將傳武田家廾四將 :山縣三郎兵衛昌景」1848年作

山県昌景(やまがたまさかげ)は甲斐武田家の信玄・勝頼の父子2代にわたって仕えた武将であり、後の世においては武田4名臣や、四天王にも数えらている人物です。

昌景は、武田家の家老を務めた飯富虎昌(おぶとらまさ)の弟または甥にあたる人物とも伝えれていますが、その虎昌から武具を朱塗で統一した精強な「赤備え」の兵を受け継ぎ、率いて名を馳せた武将でした。

この「赤備え」という名称を、遠く他国の兵にまで知られ恐れられる部隊としたことで、後の時代の井伊直政真田信繁に繋がる精鋭部隊の代名詞とした強者でした。

しかしその実、昌景自身は当時としても非常に小柄で、その容貌も決して武名に即したものではなかったとされています。

山県への改姓

昌景は享禄2年(1529年)の生まれと伝えられており、まず信玄に近侍として仕えたとされています。

信濃への侵攻の際に初陣を飾ったものとみられており、やがて信玄の側近として若年の家臣だけで構成された「御使番衆12人」の1人に選任されました。
昌景は天文21年(1552年)にそれまでの武功を評価されて、若くして騎馬150持の侍大将に就きます。

昌景が山県の姓を名乗ることになったのは、永禄8年(1565年)10月に発生した事件がきっかけだったようです。この事件は、信玄の嫡男である武田義信とその傅役を務めた飯富虎昌が謀反を起こしたというものでした。

虎昌がこの謀反を企てたことで、飯富の名が主君に歯向かった罪人となったため、昌景は自らも武田家を辞する覚悟だったと言われています。しかし昌景の際を惜しんだ信玄が、虎昌が率いた赤備えの部隊と、武田家の譜代の家臣ながら断絶していた山県の名跡を継いで仕えるように命じたことから山県昌景を名乗ることになったと伝えられています。

信玄の西上作戦

※青崩峠。武田軍はここを越えて徳川方へ攻め入った(兵越峠の説あり)

その後の昌景は今川氏の駿河への侵攻や、相模方面での北条氏との戦さに従軍し、永禄12年(1569年)には駿河の江尻城の城代を任じられました。

また同年に北条勢との間で行われた大規模な山岳戦・三増峠の戦いにおいて、緒戦を優位に進めていた北条勢を昌景の別動隊が奇襲を成功させ、この働きで味方の退却を援けける働きをしたとされています。

元亀3年(1572年)に信玄が上洛を目指して西上を開始すると、昌景は別働隊の兵5000を指揮して三河の東部へと進みました。

ここで昌景は長篠城を経由した後に浜松へと兵を進め、柿本城・井平城・段嶺城・奈倉城など徳川勢の6つもの城を陥落させたと伝えられています。

同年の12月に武田勢と家康との三方ヶ原の戦いが行われた際には、数に勝る武田勢が優勢に戦を進める中『甲陽軍鑑』によれば、昌景勢が窮地に陥った局面があり、ここでは勝頼勢が昌景を救ったとも言われています。

この戦で家康を破った武田勢ではありましたが、翌元亀4年(1573年)4月に信玄が病没したことで西上の作戦は中止させることとなりました。

長篠の戦い

信玄の後を継いだ勝頼は、天正2年(1574年)に東美濃へと侵攻しました。ここで明智城をめぐっての戰いが発生しました。

この戦いにおいて昌景は、後詰に現れた織田信長の兵30,000に対して、山の地形を巧みに利用した戦術を用いて僅か6000の手勢ながら、織田勢を退けたと伝えられています。

一説には、この時 昌景勢は信長の護衛として周囲を囲んでいた16騎の内の9騎を討ち取り、残り7騎も逃亡するなど、信長の本陣まで攻め込みました。

続く翌天正3年(1575年)5月、武田勢は織田・徳川連合軍との長篠の戦いを迎えました。この中で同年5月21日に武田勢が大を喫することとなる設楽ヶ原の戦いが行われます。

昌景はここでは武田信豊の指揮下にあって左翼の主力として戦い、徳川勢の大久保忠正と交戦し、敵陣へと突入しましたが、馬上で17ケ所にもわたる銃弾を浴びて討ち死にしたと伝えられています。

信長公記」によれば、長篠の戦いで討ち取った武田勢の武将の筆頭に昌景の名が記されており、信長側から見ても、武田の将として最も重要視されていた武将であったことが伝わってきます。

 

アバター

swm459

投稿者の記事一覧

学生時代まではモデルガン蒐集に勤しんでいた、元ガンマニアです。
社会人になって「信長の野望」に嵌まり、すっかり戦国時代好きに。
野球はヤクルトを応援し、判官贔屓?を自称しています。

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 【戦国史上最悪の籠城戦】 秀吉の鳥取城渇え殺し 〜「死肉を奪い合…
  2. 武田信玄の病と死因 「ストレスによる胃潰瘍だった?」
  3. 【戦国武将の男色】 衆道とは ~伊達政宗が身も心も愛した男たち
  4. 島津義久 〜それぞれ優秀な弟たちを束ねた島津4兄弟の長兄
  5. 尼子経久【戦国時代を代表する下克上を成し遂げた武将】
  6. 火縄銃の殺傷力はどれほどだったのか? ~弓矢との比較(射程、威力…
  7. なぜ武田家は戦国最強軍団だったのか? その理由とは
  8. 【イエズス会の野望】 日本と中国の征服を計画していた 「日本人奴…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

猫の祖先・歴史について調べてみた

猫の起源猫の祖先は約6,500万年前~4,800万年前に生息した小型捕食動物のミキアスです体…

【十二支の本当の由来とは】 干支について調べてみた

2024年の干支は辰年だ。年末年始に年賀状や街中にかかげられたディスプレイを見て、今…

坂上田村麻呂について調べてみた【武の象徴として軍神になった征夷大将軍】

忠臣として名高い 坂上田村麻呂征夷大将軍と聞くと思い浮かぶのは鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を…

小四郎の名を継ぐ者がここに。義時の隠し子?北条時経とは何者か【鎌倉殿の13人 外伝】

北条義時(ほうじょう よしとき)の息子と言えば、「俺たちの泰時」こと北条泰時(やすとき)はじめ6人が…

「バベルの塔」は実在するのか?モチーフとなったジッグラト【エテメンアンキ】

<出典 wikipedia>『バベルの塔』の伝説旧約聖書…

アーカイブ

PAGE TOP