
※家康を苦しめた三河一向一揆
いろんな戦国大名が群雄割拠していた戦国時代。
しかし、戦国大名が一番恐れていたのは戦国大名ではなく、浄土真宗本願寺教団によって組織された一向一揆 の存在でした。
今回はそんな一向一揆がなんで強かったのかを見てみましょう。
信仰している人が多すぎる
まず、一向一揆のやばいところは、この頃に浄土真宗を信仰していた人がかなり多かったことです。
信仰している人が多い=一向一揆をする人も多い
と言えるため、一向一揆に参加する人が尋常じゃないぐらいの量だったのです。
例えば朝倉軍と一向宗が戦った時には一説によると10万、さらには30万にも及ぶ軍勢が攻めてきたという記録も残っているぐらいです。
信長を苦しめた長島一向一揆の時でも10万人以上の一向一揆軍の人たちが籠城していたのですから、戦国大名からすれば恐怖に他ならないことだったでしょう。
「しかし農民でしょ?簡単に潰せる潰せる」と思ったそこの君。
残念ながら戦国時代初期の兵士はだいたい農民です。そのため戦に慣れている人がかなり多く、それをまとめる武将はいないものの、個人の戦闘となれば結構互角に渡り合えることができます。
さらに一向一揆を潰しても所詮は一揆。
つまり例え一揆を鎮圧したところで所領も増えることはありませんし、さらに言えば自国内で起きた場合だと自国の領民を殺したことになるため、一向一揆は戦国大名からすれば超厄介な存在だったのです。
本願寺の圧倒的な財力

※本願寺顕如
一向一揆が強かった一つの理由に、浄土真宗の総本山である石山本願寺の財力が莫大なものだったことがあります。
まず、浄土真宗は宗教団体ですので全国の信仰者から莫大なお布施が届きます。これだけでもやばいですが、さらに石山本願寺の本拠地が当時栄えていた堺と京都の間にある門前町だったため、そこからも大量の財源が入ってきます。
そのため、本願寺は大量の武器を購入することができ、さらに言えば石山本願寺は、毛利家や本願寺顕如と親戚関係にある武田家などの有力大名から大量の兵糧が送られてくるため、持久戦も耐えれました。圧倒的な財力によって本願寺は支えられていたのです。
死んでも構わないという姿勢
一向一揆が強かった最大の理由と言ったら、何と言っても
「死んだら極楽浄土に行ける」
と思っているので死んだって構わないと思う人がたくさんいたためです。これが一向一揆が恐れられていた最大の理由と言えるでしょう。
人というのは恐ろしいもので、自分の人生を賭けるぐらいに思想にのめり込めば、人を殺してもなんとも思わなくなるのです。
例えばオウム真理教の信者たちも色々な事件を起こしたように、この一向一揆も浄土真宗を潰そうとしている人に対しては殺害しても構わないとし、さらに浄土真宗の教え自体が例え悪人でさえも「念仏を唱えたら死んだら極楽浄土に往生できる」、というものだったので戦をすることに対する歯止めが効きにくい状態となっていったのでしょう。
教祖である法然や親鸞からすれば、そんなことしなくていいから念仏を唱えとけとあの世で思っていたと思いますが、
顕如は石山合戦が始まった際に
「仏法の灯火を守るために織田と戦え。従わなければ破門する」
という檄文を飛ばして織田領内各地で一向一揆起こし、さらに一向衆は
『進者往生極楽 退者無間地獄』(進めば極楽に行けて、逃げたら地獄に行くよ)
という旗を掲げて信長に立ち向かいます。
最後に
一向一揆は石山合戦で信長と講和した後、顕如が石山本願寺から退去してから急速に力を落としていくようになります。
しかし、後に出される刀狩や寺社諸法度が出されていた背景には、農民が武器を持っていると一向一揆の再現となるという教訓があったとされ、いかに一向一揆が恐れられていたということが見て取れます。
抜き難し南無六字の城
山科の二の舞いを踏まぬよう、加賀の国(石川県)から築城者を招集し、近国の門徒有志を募って、堅固な石垣を築き、文字どおり法城とした。