戦国時代

大久保忠世 「信玄、信長、秀吉に称賛された徳川十六神将」

大久保忠世とは

大久保忠世

大久保忠世の肖像

大久保忠世(おおくぼただよ)は徳川家康に仕えた、徳川十六神将の一人に数えられた武将である。

徳川家康が今川家の人質になっている時から仕えた三河武士で、家康と共に数多くの戦で武功を挙げて、小田原城主となった人物だ。

徳川家康の危機を救った武将・大久保忠世について迫る。

生い立ち

大久保忠世(おおくぼただよ)は天文元年(1532年)三河国(現在の愛知県岡崎市)の松平家に仕えた大久保忠員の長男として生まれる。

大久保忠世

徳川家康

忠世は今川家の人質となった松平竹千代(後の徳川家康)のお付きの家臣として、駿河で幼い家康を支えた。

忠世は家康よりも10歳ほど年上であり、15歳の時に初陣を経験。

家康が今川家の人質時代の弘治元年(1555年)には、今川方の将として蟹江城攻めで武功を挙げて「蟹江七本槍」の一人として称されるほどの活躍をしている。

三河一向一揆

永禄3年(1560年)今川義元は、約2万の大軍で尾張へと侵攻を開始。家康は先鋒を任せられて忠世も家康と共に出陣する。

同年5月19日、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると今川軍は敗走。その隙をついて家康は岡崎城に入り今川家から独立した。

永禄6年(1563年)家康の最初の試練となった三河一向一揆が起こった。

大久保忠世

三河一向一揆「大樹寺御難戦之図 三河後風土記之内」

家康の家臣たちの中にも一向宗の門徒が多く、家を二つに割って徳川家と一揆側とに分かれて戦うこととなった。

忠世は分家であるにもかかわらず大久保一族をまとめ上げ、一丸となって家康支持に動き、改宗までさせて家康への忠誠を誓ったという。

忠世は陣頭指揮を執って戦ったが、あまりの激戦で負傷し、片目の視力を失ったと伝えられている。

結局、三河一向一揆は決着がつかず、家康と一揆側は和睦となった。

家康は一揆の首謀者を逃亡に追い込み、彼らに従った地侍を取り込んで家康直属の「旗本先手役」を組織した。

この「旗本先手役」は家康直属の機動戦闘部隊で、家康の指示で真っ先に行動する部隊のことである。

三河一向一揆の働きで、忠世と弟・忠佐はこの部隊の将に選ばれる。

忠世は100名以上の兵を任され、先手役最大規模の部隊の将となった。

三方ヶ原の戦い

忠世はその後も家康の下で、姉川の戦いなどで武功を挙げる。
しかし元亀3年(1573年)武田信玄との三方ヶ原の戦いで家康軍は大敗を喫してしまう。

大久保忠世

『徳川家康三方ヶ原戦役画像』(徳川美術館所蔵)

敗走して何とか浜松城に逃げ帰った家康ら徳川家臣団は、圧倒的な敗北に意気消沈したという。

そんな中にあって忠世は味方の士気高揚を目的に、何と武田軍の陣に夜襲をかけて銃撃し陣を大混乱させた。

これにはさすがの信玄も「勝ちてもおそろしき敵かな」と感嘆したという逸話がある(※三河物語)

天正2年(1574年)遠江犬居城を攻略した時には、忠世は敵の襲撃で崖下に落とされたという。
しかし忠世はすぐさま崖を這い上がり、待ち伏せをしていた敵兵3人を一気に斬り殺したという逸話も残っている。

長篠の戦い

※長篠合戦図屏風

天正3年(1575年)武田勝頼と織田・徳川連合軍が激突した長篠の戦いでは、忠世は弟・忠佐と共に大活躍をしたという。

長篠の戦いを見ていた信長は、徳川方の武将で優れた働きをしていた二名を「武者二騎の駆け引きは見事であり、鬼神をも欺く美しさだ」と評した。

その武者は、忠世と忠佐の兄弟であった。

信長は家康に「家康殿は良い家臣を持っておられる、彼らは敵のもとを決して離れようとはしない、良い武将を従えることに関しては家康殿にはかなわない」と言って褒め称えたという。

武田方の二俣城を攻略した後に、忠世はその功績で二俣城主となっている。

天正10年(1580年)天正壬午の乱では、忠世は諏訪頼忠を恭順させ、その他の武田の残党を次々に味方にして徳川家へ引き入れるという武功を挙げる。

本能寺の変の後、家康は甲斐・信濃を制圧し、忠世は信州惣奉行に就任して小諸城主になっている。

小田原城主となる

天正13年(1585年)真田昌幸・信之・信繫と戦った上田合戦では、忠世は鳥居元忠・平岩親吉らと共に参戦しているが、この戦いでは徳川軍千人以上が死傷するという大敗を喫してしまう。

小田原城 写真撮影 gunny

天正18年(1590年)小田原征伐の後に家康が関東に移封となると、豊臣秀吉の命もあって忠世は小田原城主となり4万5,000石の大名となった。

嫡男・忠隣も羽生2万石を与えられて、忠隣は後に徳川秀忠の側近となる。

小田原は関東の防衛の要であり、忠世が家康から信頼されていたことが分かる。

4万5,000石の石高は徳川家臣団の中では井伊直政結城秀康本多忠勝榊原康政に次ぐ第五位であり、徳川四天王の酒井忠次よりも多かったのだ。

二俣城主となってから忠世は常に質素倹約に励み、突然お金が必要になった時のためと軍備のために、1か月の内の7日間食事を一切摂らない日を設けた。

この「七不食」は小田原城主となっても続けており、戦や飢饉のために備えたという。

文禄3年(1594年)9月15日、小田原城で63歳の生涯を終え、家督は嫡男・忠隣が継いだ。

おわりに

大久保忠世には豪快な逸話や伝説がなく知名度が余りないとされているが、こんな逸話がある。

ある時、豊臣秀吉に「お前は家康殿の重要な家臣だから小田原城主にした。わしもお前の力を高く買っている。もし豊臣と徳川が争ったらお前はどっちにつく」と尋ねられた。

忠世は「殿下には大変な恩義があるが、私は徳川の譜代なのでその時は義に従い、徳川のために戦う」そして「その時は徳川が勝ち、殿下は関白の地位も天下統一の立場も失う。殿下の命は私次第ということだ」と平然と言ってのけたという。

秀吉は苦笑するしかなく「血気盛んなご老体だ、まあ飲め」と酒を注いだという。

大久保忠世は、元服前の今川家の人質時代から徳川家康に忠義を尽くした、三河譜代を代表する武将であった。

 

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