西洋史

ポンペイ はなぜ一夜にして消えたのか?【石膏で復元された遺体】

西暦79年、イタリア・ナポリの近くの街「ポンペイ」が一夜にして消えた。

文字通り「一夜にして」消えてしまったのだ。紀元前7世紀頃より人々が住み、ローマ帝国時代には商業も盛んな港湾都市でもあった。

それが、町の北西 10 kmにあるヴェスヴィオ火山の噴火により壊滅してしまう。ほとんど記録も残せないほどの早さで消えたポンペイに何が起きたのか?

女神に愛された街

ポンペイ
※アレクサンドル・カバネル『ヴィーナスの誕生』

ポンペイの守護神は愛と女神の女神「ウェヌス(ヴィーナス)」であり、娼婦の館などが発掘され、ここで男女の交わりを描いた壁画が多く出土したことから、現代ではポンペイは快楽の都市とも呼ばれる。しかし、当時は性的におおらかな時代であったため、そのこと自体に問題はない。

どちらかというと、娼婦が集まるほど栄えた街であったと表現したほうがいいだろう。火山噴火まではぶどうの産地であり、ワインを運ぶための壺が多数出土されていることから、主な産業はワイン醸造だったことが伺える。現在も遺跡のなかには、船をロープで固定するための設備も発見されており、ワインと海運で賑わっていた。現在はポンペイ周辺で火山活動の地殻変動によって陸地が上昇し、相対的に水位が下がっているが、当時は海に面した街だったのである。

また、ローマ人の余暇地として繁栄したポンペイの最盛期の人口は約2万人といわれている。

ヴェスヴィオ火山噴火

ポンペイ
※野外闘技場跡よりヴェスヴィオ火山を望む

62年2月5日、ポンペイを襲った激しい地震によりポンペイや周辺の都市は大きな被害を受けた。

街はすぐに以前より立派に再建されたが、その再建作業も完全には終わらない79年8月24日の午後1時頃にヴェスヴィオ火山が大噴火し、一昼夜に渡って火山灰が降り続ける。翌25日(噴火から約12時間後)の噴火末期に火砕流が発生し、ポンペイ市は一瞬にして完全に地中に埋まった。そして、降下火山灰はその後も続いた。

当時、唯一の信頼できる記録は、小プリニウス(ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス/帝政ローマの博物学者で、ヴェスヴィオ火山の噴火の様子を書簡にまとめた)が歴史家タキトゥスに宛てた手紙である。これによると、伯父の大プリニウスはヴェスヴィオ火山の山頂の火口付近から、松の木(イタリアカサマツ)のような形の暗い雲が山の斜面を急速に下り、海にまで雪崩れ込んだのを見たと記録している。

火口から海までを覆ったこの雲は、現在では火砕流として知られる。これは火山が噴火したときに、高温ガスや灰や岩石が雪崩のように流れる現象である。

致命的な硫黄の蒸気と溶岩は情け容赦なく町を襲い、人々は家と家の間に避難場所を求め何とか身を隠す場所を求める努力をした。しかし、火砕流の発生が深夜だったこともあり、逃げ遅れた多くの市民が犠牲になっている。

火砕流の発生まで


※火砕流

さて、ヴェスヴィオ火山の噴火から火砕流の発生までは約12時間あったとされている。午後1時頃に噴火し、翌午前1時頃に火砕流が発生。火砕流と二酸化硫黄などの有毒性火山ガスにより一夜にして街が壊滅した。

しかし、噴火直後に街を逃げ出した市民も多く、残っていたのは有力な商人など「財産を手放せない」人々が多かった。市民のほとんどが火山の犠牲になったと思われているようだが、実際には、地震の前に2万人程度いたポンペイ市民の内、何らかの理由で街に留まった者の中から逃げ遅れた者約2千人が犠牲になった。

さらにその2千人の多くが商人たちの奴隷や使用人たちと見られている。当時、大商人たちはポンペイに豪邸を建て、その地下には奴隷たちが暮らす牢屋ほどの狭い部屋が並んでいた。もちろん、牢屋ではないので出入りは自由だったが、主人が逃げない以上、奴隷たちが勝手に逃げ出すわけにもいかない。そのため、12時間後にも関わらず犠牲者がここまで増えたと推測されている。

ポンペイ の発掘


※19世紀に発掘されるポンペイ

ポンペイ壊滅後には、その跡地に街が築かれることはなかったが、記録によりその下に都市が埋まっていることは知られていた。

1738年にヘルクラネウムが、続いて1748年にポンペイが再発見され、建造物の完全な形や当時の壁画を明らかにするために断続的に発掘が行われた。ヘルクラネウムとはポンペイ同様に79年のヴェズヴィオ火山の噴火によって失われた街であり、イタリアのカンパーニャ州のエルコラーノにある。街の規模はポンペイよりも小さかった。

ポンペイとその周辺の別荘からは多数の壁画が発掘され、古代ローマの絵画を知る上で重要な作品群となっている。

ポンペイの壁画の様式には年代により変遷が見られ、主題も静物、風景、風俗、神話と多岐にわたっている。男女の交わりを描いた絵も有名で、これらはフォルム(市民広場)や浴場や多くの家や別荘で、よい状態で保存され続けていた。1000平方メートルの広さをもつホテルは、町のそばで見つかった。現在、このホテルは、「グランドホテル Murecine」と呼ばれる。

ではなぜ、それほど良い状態で遺跡は発見されたのか?

実は、ポンペイを一瞬にして襲った火砕流、正確には火山灰を主体とする火砕流堆積物には湿気を吸収する成分が含まれており、さらに街全体を埋めた形になったために風化することもなく当時の姿を留めていたのである。

そうして、ポンペイが人々の前にその姿を再び現した18世紀半ばから、発掘は今に至るまで続けられている。

ポンペイの姿

ポンペイの悲劇を物語る石膏像を見たことはあるだろうか?

逃げ遅れた人々が一瞬にして火砕流に飲み込まれ、その上には灰が降り積もった。やがてその灰は固まるとともに内部の遺体は朽ちて空洞が残る。

研究者たちはそこに石膏を流し込み、死の瞬間を再現した。

ポンペイ
※石膏で復元した遺体

これは有名な話だが、その他にも発掘されたものはいくつもある。


※パン屋の石釜

ポンペイ
※ワインバー。丸い穴にワインの壷を入れていたらしい。

ポンペイ
※公衆浴場。壁画の色彩も鮮やかに残る。

その他にも、焼いたままのパンや、テーブルに並べられたままの当時の食事と食器、壁の落書きは当時のラテン語をそのまま伝えている。

そして、この歴史上の英雄について語る際、必ず登場する有名な肖像画も発見された。

ポンペイの遺跡群の中、通称「ファウノの家」にあったもの。ポンペイの中でも最も広く、豪華な邸宅床を飾っていたのがアレキサンダー大王の「イッソスの戦い」のモザイク画であったのだ。


※イッソスの戦い

最後に

ローマのに限らず、古代の街並みをそのまま伝える街はイタリアのいたるところにある。

しかし、ポンペイほど「純粋に」その街並みを残している場所はない。

ポンペイの悲劇が皮肉にも古代ローマ帝国の栄華を今に伝えることになったのだ。

(アレキサンダー大王については「アレキサンダー大王の遠征について調べてみた」を参照)

 

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