西洋史

暴君ではない皇帝ネロの功績を調べてみた

皇帝ネロの功績
※ネロ帝のアス硬貨

現代においても「暴君」と呼ばれるローマ帝国第5代皇帝ネロ・クラウディウス

果たして彼が本当に噂どおりの人物なのかは「皇帝ネロは本当に暴君だったのか調べてみた」で記したが、それは彼の一面にしか過ぎない。

そこで、今回は為政者としてのネロの功績など、違った角度から彼の生涯を調べてみた。

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ローマ市の再建

皇帝ネロの功績

紀元前64年にローマで起きた大火災は、ローマ市14区のうち3分の2にあたる10区を焼いた。うち3区は灰燼に帰し、7区は倒壊した家の残骸をわずかに留める程度だったという。
出火当時にローマを離れていたネロは、すぐにローマに帰り鎮火や被災者救護の陣頭指揮をとったとされている。一方で有名なのが大火を宮殿から眺めつつ、バイオリンを片手に、故事になぞらえ「トロイアの陥落」を吟じていたなどと噂されもした。

火災に対処するネロの記録があるため、そうした噂は真実ではないが、それまでの政策や人間関係の構図から悪意ある噂が立つのは仕方あるまい。

結果、ローマはそのほとんどが焼き尽くされ、多数の死傷者を出したが、ネロは王朝の財をほとんど投入し、火災からの復興に励んだとも伝えられている。そのため、このことに関しては、後世の歴史家にも高く評価された。

ローマ大火」と呼ばれる大火災は、ネロが宮殿を建てるための予定地と、被災地域が重なっていたことから、市民の間に「皇帝が火を放った」という噂が広まってしまう。たかが宮殿と思うが、実際に完成した宮殿は、噂の信憑性を高めるのに十分な規模であった。

ドムス・アウレア


※ドムス・アウレアにあるミューズ像

ローマの大火の後、ローマ市中心部に建設されたのが、ドムス・アウレア(Domus Aurea、黄金宮殿)という広大な宮殿である。このため、大火災の際には適切な対処ができたものの、ふたたび市民の大顰蹙を買うことになった。

その広大な敷地は50haとも150haとも言われる。ちなみに東京ドームの建築面積で約4.7haであるから、50haとしても単純計算で10倍以上ということだ。

庭園を中心に多くの建築物が複合した宮殿で、天井から花弁と香水が降り注ぐ食堂、天空の如く回転するドームなどがあり、壁や床はモザイクで覆われていた。しかし、ネロの死後、104年に宮殿は火災に遭いそのほとんどが消失してしまった。

ドムス・アウレアの一部で、現在まで比較的まとまった状態で残っているのは、トラヤヌス浴場を建設する際に埋められた、東西220m、南北70m程度の部分だけである。


※トラヤヌス浴場の遺跡

しかし、セメントおよびポッツオーリ(イタリア・ナポリの北にある町)の塵と呼ばれる火山灰を主成分としたローマン・コンクリート(古代コンクリート)で造られたこの宮殿により、ローマ市の再建もローマン・コンクリートの技術が存分に活かされることとなった。コロッセオにも古代コンクリートも使用されており、二千年近く経過した現在も存在しているのはそのためとされる。

内政と外交


※母を謀殺した後の皇帝ネロ

ネロがローマの大火以降行った貨幣改鋳は、その後150年間も受け継がれたが、貨幣についても興味深いエピソードがある。それが、ネロの皇帝就任を記念して作られた金貨である。
この金貨には皇帝の顔が刻まれるのが通例だが、ネロの代のものは、なんとネロと母アグリッピナが向き合った姿が刻まれていた。若干18歳で即位したネロにとって、母の権力がいかに大きく影響していたかがわかる。

さて、話を戻そう。

内政においては、国民の秩序と安全に配慮しながらも、なかなか適切な対応をしていたようだ。ブリタンニア(イギリス南部の帝国領)で女王ブーディカを首謀者とする反乱が起こったが、これも鎮圧に成功した。鎮圧後の戦後処理も適切だったため、その後のブリタンニアは平穏であった。

外交においてはパルティア(カスピ海南東部、イラン高原東北部に興った王国)などオリエント諸国との外交政策も成功し、その後東方とは50年以上、トラヤヌスの時代まで平和を保つことができた。

ネロの死後、パルティア国王は元老院に対して、「ネロは東方諸国にとって大恩ある人であり、今後も彼への感謝祭を続けることを認められたい」と申し出て受理されている。

芸術への傾倒

皇帝となったネロは、「ローマを芸術の都にする」事を夢としていた。
ドムス・アウレアの一件からも分かるように、彼は華美なものを愛でる傾向が強く、またそれを国民と共有したいという願望も強かった。そのため、数千人に及ぶ観衆を集めコンサート(ワンマンショー)を開いたり、「青年祭」という私的祭典でも演奏した。

詩人としてナポリで初めて公式な舞台に立ったともいわれる。ナポリはネロの大好きなギリシャ文化が多くあり、劇場が小さすぎるとして、再建築を命じたほどである。

しかし、「国民と共有したい」という思いは確かなものだった。ドムス・アウレアに全市民を招いて内部を披露したり、建設した公共浴場は、誰も見たことがないような光あふれる浴場で、単に体を清潔にするだけでなく、彫像や絵画、読書、詩の朗読なども楽しめるようになっていた。

独りよがりに見えるかもしれないが、彼は大衆を喜ばせることが好きな人物でもあったのだ。

最後に

暴君」という烙印を除いてネロを見てみると、皇帝としては平均以上の政策を行ったが、自分の趣味や考えに対する事柄には暴走する一面がある。
しかし、その趣味自体は個人のためではなく「国民と分かち合う」ことで完成されると考えていた。そのため国民に対しては寛容に接していたことが分かる。

彼が即位したときのスローガンである「寛容(クレメンティア)」を忘れることはなかったのだ。

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