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フレッド・アステア 【マイケルジャクソンも憧れた天才ダンサー】

フレッド・アステアとは

フレッド・アステアとは

※Fred Astaire(フレッド・アステア)

フレッド・アステア(Fred Astaire :1899~1987)とは、アメリカ合衆国で活躍した俳優、ダンサー、歌手である。

1930年代から1950年代にかけて、ハリウッドのミュージカル映画全盛期を担った存在である。

特に、映画『バンド・ワゴン』や『トップ・ハット』は彼の代表作と言われており、後世の俳優や歌手にも大きな影響を与えている。

今回はそんなフレッド・アステアの人生について追ってみた。

ブロードウェイから映画スターへ

フレッド・アステアとは

※幼少期のアステアと姉・アデール

アステアの本名は、フレデリック・オスターリッツ

ドイツ系ユダヤ人の両親の元、1899年にアメリカ合衆国オハマ州に生まれた。

4歳でダンスを始めたアステアは、2歳年上の姉・アデールとコンビを組んで、幼い頃から全米の劇場をまわって公演を打ち、人気者となる。

17歳の頃にはすでに、ブロードウェイのダンサーとして演出を任されるまでになり、また姉と主演を務めたミュージカル『バンド・ワゴン』が大成功をおさめる。

『バンド・ワゴン』が上演された時、アステアはわずか22歳、姉のアデールも24歳という若さであった。

しかし、アデールは1931年、結婚を機に舞台の世界から引退。アステアは最高のパートナーを失い、人生の岐路に立つことになる。

そこでアステアは、舞台の世界から映画の世界への転身を試みる。
しかしさまざまなオーディションを受けるも、結果は惨敗。

そんなアステアの前に、1人の救世主が登場する。

それは女優のジンジャー・ロジャース

フレッド・アステアとは""

※ジンジャー・ロジャース(Ginger Rogers)

アステアとジンジャーはコンビを組み、1933年以降は華麗なダンスを披露したミュージカル映画に多く出演した。

アステアの映画出演時の基本スタイルは、燕尾服にトップハット。
このエレガントなスタイルが観客に受け、アステアとロジャースは、映画史上最高のダンシング・ペアとされた。

当時、アメリカでは不況が続いており、人々は意気消沈していたが、アメリカの人々はスクリーンでの2人の姿に熱狂したのである。

タップダンスの神様

ダンスの神様』と称されたアステアだが、特筆すべきはそのタップダンスの素晴らしさである。

タップダンスとは、大航海時代、奴隷としてアフリカから連れてこられた人々から生まれたダンスである。

彼らは侵略者たちから、会話や、ドラムを演奏することなどを禁じられており、それは黒人の文化を否定されているのと同じことであった。

そこで彼らは、大きく足を踏み鳴らして感情表現をし、リズムを取ることでお互いにコミュニケーションをしたのだと言う。

タップダンスは、歴史の闇から生み出された1つの芸術であるが、その素晴らしさは年代によって形を変えながら、現代も多くに人に愛されている。

小柄で、柔和な印象のアステアだが、パフォーマンスに関しては相当な熱血主義、どこまでも完璧を目指して邁進していたようだ。

アステアの出演作品は現在でも多く残っており、その素晴らしいパフォーマンスを見ることが出来る。

(ドラムの演奏をしながらタップダンスを踊るアステア)

さまざまなスターとの共演


(1957年、オードリー・ヘップバーンと共演した『パリの恋人』)

1940年、ジンジャー・ロジャースが「演技派の女優としてキャリアを積みたい」と強く望んだことにより、アステア&ロジャースのコンビは解散。

ここから、アステアのフリーとしてのキャリアが始まる。

『タップの女王』として名をはせたエレノア・パウエルとも競演を果たすなど、順調にキャリアアップをしていたアステアだが、1941年からは、アメリカが第二次世界大戦に参加。

戦争中、アステアは各地へ赴き、慰問公演を行った。

そして終戦後、映画会社MGMと契約、映画『イースター・パレード』ではジュディ・ガーランドと共演をし、さらには1956年、22歳の時に大成功をおさめた舞台『バンド・ワゴン』が、アステア主演、ヴィンセント・ミネリ監督で映画化される。

この映画は世界的に大ヒットし、フレッド・アステアの人気を不動のものにした。

ちなみに、アステアは背の低いことをコンプレックスに思っており(170cm)、『バンド・ワゴン』でヒロインをつとめたシド・チャリシーは高身長であったため、アステアが共演をしぶったというエピソードがあり、そのエピソードは『バンド・ワゴン』の中でも描かれている。

さらに1957年の映画『パリの恋人』では、オードリー・ヘップバーンと共演している。

フレッド・アステアの晩年

※ロバート・ワグナーと共演した『スパイのライセンス』(1969年)当時70才

1970年代半ばに引退したアステアは、その後、1980年に45歳年下の妻と結婚する。
彼女はロビン・スミスという女性で、騎手であり、当時35歳であった。

すでに80歳であったアステアは、年齢差のありすぎる彼女との結婚を周囲に反対されたが、アステアは駆け落ちを考えるまでの真剣な恋であったという。
見事結婚した2人は、幸せな結婚生活は送った。

また、ポップの王様であるマイケル・ジャクソンは、アステアの大ファンで、彼の人生に大きな影響を与えたのだと言う。マイケルの出現でムーンウォークが話題となった時には、すでに高齢であったアステアがムーンウォークをマスターし、周囲の人々に披露したという逸話が残っている。

アステアは1987年6月22日、カルフォルニア州で死去。88歳であった。

性格はシャイで大変紳士的な人間だったため、アメリカにおいて「アステア」は紳士の代名詞となり、米俗語として「アステア=ダンスの上手い洗練された男性」ということになっている。

軽やかで紳士的、エレガンスな彼のタップダンスは、現在も多くのファンに愛されている。

 

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歴史小説が好きで、月に数冊読んでおります。
日本史、アジア史、西洋史問わず愛読しております。

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