たとえ悪魔について詳しい知識を持たなくとも、「エクソシスト」という言葉を聞いたことがある方は多いだろう。
エクソシストとは「エクソシズム」という、悪魔祓いの儀式を行う人物のことだ。
日本では、映画や漫画などの創作物の中でしか見かけることのないエクソシストやエクソシズムだが、カトリックを主たる宗教とする国では、今でも特別な認可を受けたカトリック教会の司祭(神父)に対して、実際にエクソシズムを行う権能が与えられている。
敬虔なカトリック信徒であった「アンネリーゼ・ミシェル」は、カトリック教会から認可されたエクソシズムを合計67回も受けながら、重度の栄養失調と脱水状態に陥って衰弱し、23歳で死に至ったドイツ人女性である。
アンネリーゼの悪魔憑き事件は、彼女の死後に行われた裁判において、彼女のエクソシズムに関わった司祭や両親に対して責任の追及が行われたことで、広く知られるようになった。
アンネリーゼの命を奪ったのは彼女に取り憑いた悪魔なのか、それとも「悪魔憑き」と判断して医療から遠ざけた人々の過失なのか。
今回はアンネリーゼ・ミシェルに対して行われたエクソシズム事件、その後に行われた裁判について触れていこう。
アンネリーゼ・ミシェルの生い立ち
アンネリーゼ・ミシェル(独語名:アンナ・エリザベート・ミヒェル)は、第二次世界大戦終戦から7年後の1952年9月21日に、旧ドイツ連邦共和国バイエルン州ライプルフィングで生まれた。
アンネリーゼの両親は敬虔なカトリック信徒で、アンネリーゼもまた両親に倣い、教会のミサに週に2回通うような信仰心の篤い少女に育った。
生まれつき病弱だったアンネリーゼの体に明らかな異変が現れ始めたのは、彼女が10代の頃だった。
たびたび激しい痙攣発作を起こすようになったのである。病院での検査では脳波に異常は見られなかったものの、16歳の頃には医師により「側頭葉てんかん」と診断された。
頻繁にてんかんの発作に悩まされるようになったアンネリーゼは、進学したヴュルツブルク大学にも満足に通えず、重度の抑うつ状態に陥り、精神病院への入院を余儀なくされた。
病院では、抗てんかん薬としてフェニトインを処方されたが効果は見られず、入院中も3度の痙攣発作を起こし、「悪魔の顔が見える」と話し始めた。
主治医は抗精神病薬として、さらにプロペリシアジン薬をアンネリーゼに投与したが、症状は治まるどころか悪化し続けた。
アンネリーゼはうつ病の症状を呈すようになり、やがては「お前を地獄に落とす」「呪われている」「めちゃくちゃに腐っていく」という幻聴まで聞くようになっていった。
神聖なものに拒否反応を示すようになる
医学的な治療の効果を感じられないアンネリーゼは、失望感の中で「私の症状は、悪魔の仕業によるものではないか」と考えるようになり、十字架やキリスト教に関わる場所に拒否反応を示し出した。
ある日、アンネリーゼは親しい友人とともに、イタリアにあるカトリック非公認の聖地「サン・ジョルジョ・ピアチェンティーノ」を訪れた。
アンネリーゼは、以前から友人と共にキリスト教聖地の巡礼を行っていたが、熱心なカトリック信徒であるはずの彼女はこの時、十字架の前を通ることができず、聖なる泉から湧き出る聖水を飲むこともできなかったという。
このことによりアンネリーゼ本人と家族や友人は、「アンネリーゼに悪魔が取り憑いている」と確信し、何人かのカトリック教会の司祭に悪魔祓いを依頼する。
しかし、この時依頼された司祭たちは、アンネリーゼの依頼を丁重に断って医学的治療を続けるように助言し、アンネリーゼの家族には「悪魔祓いを行うためには、司教の許可が必要だ」と伝えた。
司祭たちに悪魔祓いを断られたアンネリーゼの症状は日に日に悪化していき、クモやハエなどの昆虫を食べようとしたり、床に放尿してそれを飲もうとするなど奇怪な行動が増え、自殺願望まで抱き始めた。
最初のてんかん症状から7年後の1973年11月からは、新たに抗てんかん薬および精神安定薬としてカルバマゼピン薬が処方されるようになったが、それでも症状が改善することはなかったという。
悪魔憑きと認められエクソシズムが行われる
アンネリーゼの両親は、悪化し続ける娘の病状を危惧して、カトリック教会のエルンスト・アルト神父にエクソシズムを依頼した。
彼女の様子を見に来たアルト神父は、すぐさま「アンネリーゼの症状は、てんかん患者とは異なる」と判断し、アンネリーゼが悪魔に取り憑かれていると確信する。
アルト神父は、バイエルン州ヴュルツブルクの司教ヨーゼフ・シュタングルにエクソシズムを行う許可を求めた。
これを受けて、シュタングル司教は「司祭のアルノルト・レンツ神父が主導者となり、1614年版の儀式書に基づいたエクソシズムを秘密裏に行うこと」を条件に、これを承認した。
シュタングル司教から命を受けたレンツ神父は、アルト神父と共に1975年9月24日、最初の儀式を行った。
この頃、アンネリーゼの両親は、娘に医学的治療を施すことを諦め、エクソシズムにのみ頼ることを決意していた。
アンネリーゼに対するエクソシズムは、1975年9月から週に1,2回の頻度で行われ、1回の儀式に4時間を費やすこともあった。
彼女に憑依した悪魔たちは自ら身元を明かし、神父たちはその中から「堕天使ルシファー」、「弟殺しのカイン」、「裏切り者ユダ」、「ナチス総統アドルフ・ヒトラー」、「暴君ネロ」、「堕落した聖職者バレンティン・フライシュマン」、の6体の悪魔を特定できたという。
やがて、アンネリーゼは「聖母マリアの声を聞いた」と発言し、神父たちに「現代の我儘な若者たちや、カトリック教会の背教的な司祭たちのために、自分の死をもって償う」と話し始め、さらには食事を摂ることを徹底的に拒むようになる。
飢餓状態に陥ったアンネリーゼはやせ細り、ひざまずく礼拝の姿勢を繰り返したために脚の骨は折れ、度重なる自傷行為によって顔も体も傷と痣だらけとなり、歯も欠けてしまい、自力で動くことすらできなくなっていった。
そして、合計67回も行われたエクソシズムの儀式の末、1976年7月1日、自宅で寝たきりとなっていたアンネリーゼは「お母さん、私怖い」とつぶやきながら、23歳の若さでこの世を去った。
死因は、重度の栄養失調と脱水による衰弱死とされた。
アンネリーゼ事件の裁判
自宅で死亡したアンネリーゼの遺体は、検死を受けることとなった。
検死の結果を知ったバイエルン州の検察官は「アンネリーゼの死は、医学的治療を受けることによって防止することができた」と主張し、両親とアルト神父、レンツ神父を過失致死傷罪で起訴した。
アンネリーゼの死から約1年半後の1978年3月30日、裁判が始まった。
2人の神父にはカトリック教会によって雇用された弁護士がつけられ、両親にはシュミット・ライヒナー弁護士が弁護についた。
両親についた弁護士は「カトリック教会に認められたエクソシズムは合法であり、制限されるものではない」と主張し、神父側の弁護士は「アンネリーゼに対して行われたエクソシズムには正当性がある」「神父たちはアンネリーゼの健康状態を把握していなかった」と主張した。
裁判の結果、両親と神父2人にはそれぞれ過失致死罪が認められて有罪となり、6ヶ月の拘留と執行猶予3年の刑が言い渡された。拘留に関しては後に保留となったが、これは検察側が示した求刑よりも重いものだった。
アンネリーゼの事件は司法により、精神障害の誤認、保護責任者の怠慢、虐待、宗教的ヒステリーと位置付けられたのだ。
裁判後に両親は、ある修道女の進言によりアンネリーゼの遺体の発掘を、当局の許可を得て行った。
両親はその修道女に「アンネリーゼの遺体は腐敗しておらず、これは超自然的な原因により落命したことを示す」ものであると告げられたのだが、発掘されたアンネリーゼの遺体は通常の遺体と同様に、腐敗が進行している状態だったという。
アンネリーゼ事件の余波
この事件に際して、イエズス会の司祭で精神科医のウルリヒ・ニーマン神父は「医師としての見解では、肉体が悪魔に乗っ取られることはなく、アンネリーゼの症状の原因はれっきとした精神障害である」と語っている。
1999年、当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、ごく稀なケースを除いてエクソシズムの儀式を行うことを厳しく規制した。
ヨハネ・パウロ2世の死後、教皇となったベネディクト16世はエクソシズムを支持したが、アンネリーゼの事件が起きたドイツでは、エクソシズムの儀式が行われる数は減少しているという。
この事件は『エミリー・ローズ』『レクイエム(2006)』『アンネリーゼ』という3本の映画のモチーフともなった。
彼女に憑依した悪魔たちは、エクソシズムを行った神父たちに対して地獄や霊魂について様々な事を語ったとされ、その内容は『悪魔の返答』というタイトルで書籍化された。
バイエルン州クリンゲンベルクのブドウ畑が広がる、のどかな景色に囲まれた墓地に、アンネリーゼは眠っている。
アンネリーゼの墓には今でも信心深い近隣住民や、彼女の犠牲を悼む巡礼者が訪れている。
参考文献
Lawrence LeBlanc (著)
『Anneliese Michel A true story of a case of demonic possession Germany-1976 (English Edition) 』
Felicitas D. Goodman (著)
『The Exorcism of Anneliese Michel』
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