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浜松城へ行ってみた【続日本100名城 観光】

浜松城に行ってみた【続日本100名城】

浜松城(静岡県浜松市中区元城町)のスタンプ ※写真は全て本人撮影

浜松城の歴史

永禄11年(1568年)12月6日、甲斐国の武田信玄が駿河今川領への侵攻を開始すると(「駿河侵攻」)、徳川家康は、今川領割譲を条件として、武田信玄と同盟(「駿遠分割領有の密約」)を結び、遠江今川領へ侵攻しました(「遠江侵攻」)。そして、東西から同時に攻められた戦国大名・今川氏は、実質的に、滅亡しました。(宗主・今川氏真は北条氏を頼って相模国小田原に逃げ、早川に住みました。後に品川に移り、彼の子孫は、高家(品川家の祖は、今川氏真の次男・品川高久)として、代々、徳川将軍に仕えました。)

さて、今川領の分割に関して、徳川側は遠江国と駿河国の国境の大井川を境界と考えていましたが、武田信玄は、「遠江国の天竜川を境と定めたはず。大井川が境だとは心得ていない。大井川が境だと言うなら、天竜川まで侵攻するまで」と言い、大井川を越えて遠江国へ侵攻し、元亀3年(1572年)12月22日、「三方ヶ原の戦い」となりました。

元亀3年壬申の年、信玄、寄せ申し、越えられけるは、「『天竜川をきりて切り取らせ給へ。河東は某が切り取るべく申す』と相定め申す処に、『大井川きり』と仰せ候儀は、一円に心得申さず。然らば手出し仕り候べし」とて、申の年、信玄、遠江へ御出馬ありて(後略)。(『三河物語』)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992777/88

本当に武田信玄と徳川家康が(織田信長、あるいは、足利義昭を介して)同盟を結んでいたのか、境界は大井川なのか天竜川なのか、まだまだ研究の余地が残されていますが、いずれにせよ、徳川家康は、遠江国内に居城(本拠地)が必要だと考えたようです。(武田信玄は、本拠地を「躑躅ヶ崎(つつじがさき)館」に定めて動きませんでしたが、織田信長は、清州城、岐阜城、安土城と本拠地を移しました。徳川家康も、武田信玄のように、岡崎城を本拠地として動かなくても良かったのですが、元亀元年(1570年)、岡崎城を嫡男・竹千代(岡崎城を譲られると元服して「信康」)に譲り、自分は浜松城を築いて移りました。さらに、徳川家康は、三河、遠江、駿河、信濃、甲斐の5ヶ国を領すると、「浜松は領国の中心ではない」として浜松城を城代・菅沼定政に任せ、駿府城へ移りました。)

茲年の春、御普請できにつきて岡崎をば御長男・竹千代様え譲り、浜松の御城え御移りなされ候。(『浜松御在城記』元亀元年)

遠江国衙、守護所跡の見付城・見付端城(大見寺門前の案内板)

ある国を支配したことを国の内外にアピールするには、古代の国府所在地や、守護所所在地に城を築くのが有効です。それで、三河国幡豆郡今川荘(愛知県西尾市今川町)出身の今川氏は、駿河国の国府所在地である駿府(すんぷ。静岡県静岡市葵区駿府城公園。現在の駿府城公園)に本拠地・駿府今川館(後の駿府城)を置いたのでしょう。

遠江国へ侵攻した徳川家康は、遠江国の国府所在地である見付(みつけ。静岡県磐田市見付)の国衙跡(後の守護所。当時は見付城・見付端城)に城を築こうとしますが、見付城・見付端城(静岡県磐田市見付古城)の破損が激しい上、三方(南側以外)を磐田原(台地)に囲まれて見晴らしが悪い(富士山が見えない)ので、東の台地「上原」の「城山」(静岡県磐田市見付城山。現在の磐田城山球場)に居城・城之崎城を築き始めました。ところが、織田信長の「異見」もあって、天竜川の東(駿河国側)に位置する磐田市の城之崎城の建設工事を突如中止し、天竜川の西(三河国側)に位置する浜松市に居城・浜松城(静岡県浜松市中区元城町。現在の浜松城公園)を築きました。

永禄11戊辰、武田信玄、駿府へ発向の刻、氏真、退き、遠州掛川の城に籠もらる。于時(ときに)家康公も遠州に出張有り、掛川城廻りに陣取り、攻められるの間、翌年の春、落去し、今川氏真をば相州小田原に送りしむ。此より遠州、平均也。見付国府に普請有りて在城也。かヽる処に信玄公、異見せし給ふ間、翌年春、浜松え移りしめ、在城也。之に因り、遠・三の国人、浜松に在りしむ。(『当代記』)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1912983/10

※織田信長の「異見」:徳川家康は、磐田市に居城・城之崎城を築いていたが、織田信長の「異見」があって、工事を中止して、浜松市に居城・浜松城を築いた。その「異見」の内容は不明だが、「(南は入江だから攻められないが)北や東から敵が攻めてきて籠城戦になった時、西(三河や岐阜)から援軍を送っても、天竜川が増水していたら渡れない(戦略上よろしくない)」だと推測されている。個人的には、天竜川まで自領だと思っている武田信玄が、同盟者の織田信長に「天竜川以西に築かせろ」と文句を言ったのではないかと思っている。(大井川を境とすると、徳川と武田の取り分が1:1(同等)になってしまう。当時の徳川と武田の力関係からして「天竜川を境」が正しいのであって、「大井川を境」は江戸時代の徳川中心史観による改変だとする説がある。)なお、地元の古文書には、「井戸を掘っても塩水しか出なかったので、浜松に移った」とある。

《浜松城略歴》
永禄11年(1568年)
10月18日 足利義昭、第15代将軍に就任。
12月6日 武田信玄、「駿河侵攻」開始。
12月13日 武田信玄、駿府占領、今川氏真は掛川城へ逃走。徳川家康、「遠江侵攻」開始。
12月18日(13日とも) 徳川家康、引馬城(浜松城の前身)に入る。
12月22日(28日とも) 徳川家康、「掛川城攻め」開始。
永禄12年(1569年)
1月8日 武田軍(秋山隊)、遠江国へ侵攻。武田氏との同盟破棄。
5月6日 掛川城開城。今川氏真は伊豆国の戸倉城へ(さらに小田原城へ)。
永禄13年/元亀元年(1570年)
1月(6月とも) 徳川家康、大改修された引馬城に入り、「浜松城」と改名。
4月20日 織田信長、越前国へ出陣(徳川家康も参陣)
4月23日 「元亀」に改元。
4月30日 織田信長、京都へ帰還(「金ヶ崎の退き口」)
6月28日 織田信長、朝倉・浅井連合軍と「姉川の戦い」(徳川家康も参陣)
元亀3年(1572年)
9月29日 武田軍(山県隊、秋山隊) 徳川領である三河国に侵攻。
10月3日 武田信玄、出陣(「西上作戦」開始)。
10月10日 武田信玄、遠江国へ侵攻。
10月13日 「一言坂の戦い」(武田軍と徳川偵察隊が衝突)
12月22日 「三方ヶ原の戦い」(徳川家康 vs 武田信玄)。
・・・
天正10年(1582年) 浜松城の改修・拡張工事終了。
天正14年(1586年) 徳川家康、居城を駿府城へ移す。(浜松城での生活は17年間!)
天正18年(1590年) 徳川家康、関東移封。浜松城に堀尾吉晴が入り、織豊系城郭に改修。
慶長8年(1603年) 徳川家康、将軍となる。以降、浜松城は「徳川譜代の出世城」となる。
(注)日付には異説あり。

以上、浜松城の歴史は、

(1)徳川家康が城主の時代(石垣があり、「石垣城」と呼ばれた戦国時代)
(2)堀尾吉晴が城主の時代(巨大な天守や隅櫓があった安土桃山時代)
(3)徳川譜代が城主の時代(城主が出世して「出世城」と呼ばれた江戸時代)

に分けられます。

(1)徳川家康が城主の時代

永禄11年(1568年)末、遠江国へ侵攻した徳川家康に誤算が生じます。今川義元が武田信玄に討たれず、かといって小田原にも逃げず、こともあろうに遠江国(掛川城)に逃げてきたのです。遠江国(大井川以西)は自分の分担だと考えていた徳川家康は、掛川城の周囲に砦を築きます。居城を築く余裕などありません。

翌・永禄12年(1569年)5月、掛川城の開城により、事実上、今川氏が滅亡すると、「此より遠州、平均也」(遠江国が平定されて落ち着き始め)、秋から磐田市見付に居城を築き始めますが、翌・永禄13年(1570年)春(4月に「元亀」に改元)になって織田信長の異見で工事は中止され、浜松に居城を築き始めました。徳川家康は、この元亀元年(1570年)、織田信長と共に4月には「金ヶ崎の戦い」、6月には「姉川の戦い」で戦っていますので、6月(1月とも)に居城を浜松城に移したといいますが、本城・浜松城はまだ築城中で、実際には古城・引馬城に入り、9月12日に本城・浜松城へ移ったようです。(最終的に、浜松城の改修&拡張工事が終わったのは、天正10年(1582年)のようです。)

家康公、此秋より翌春中迄、遠州見付城普請、これ在り。(『当代記』永禄12年)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1912983/12

此6月、見付従り浜松え家康公、移り給ひ、先古、飯尾豊前が古城に在城。本城普請有り。惣廻り石垣、其の上、何も屋敷を立てられ、見付普請、相止めらる也。是、信長の異見に依り、此如く給ふ。遠・三の輩、何も浜松に在す。9月12日、本城え家康公、移らし給ふ。(『当代記』元亀元年)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1912983/14

徳川家康在城時代の浜松城(現地案内板)

田の字型の古城は、東海道・引馬(ひくま)宿の西にあり、「引馬城」と言いましたが、「引馬」は「馬をひく=敗退」というイメージなので、徳川家康は、「引間」と表記を変え、「引間城」「古城」としたそうです。そして、「本城」は、この地域のもう一つの名前「浜松」から「浜松城」と名付けました。

(注)浜松:徳川家康が「浜松」という地名を考えたと勘違いされている方が多い。「引馬」は「遠江国敷知(ふち)郡浜津(浜松)郷」にある宿場の名で、阿仏尼『十六夜(いざよい)日記』の建治3年(1277年)10月22日条に「こよひは、ひくまのしゅくといふ所にとゞまる。こゝのおほかたの名をば濱松とぞいひし」(今夜は引馬宿に泊まる。この宿場町一帯の名を「浜松」と言う)とある。

徳川家康は、29歳から45歳までの17年間、浜松城にいましたが、その間の大きな出来事の1つに武田信玄と戦った「三方ヶ原の戦い」(元亀3年12月22日)があります。この「三方ヶ原の戦い」の映像化にあたってよく問題にされるのが、

・浜松城に石垣はあったか?
・浜松城に天守はあったか?

です。『当代記』に「惣廻り石垣、其の上、何も屋敷を立てられ」とありますから、周囲に石垣を築いて建物が建てられたようですが、天守はなかったようです。(当時の浜松地方には石垣がある城は珍しく、「石垣城」と呼ばれたようです。)

※『当代記』:作者不明。一説に姫路藩主・松平忠明。「松平」と言われてもピンとこないが、長篠城主だった奥平信昌の四男で、母は徳川家康の長女・亀姫。天正16年(1588年)、徳川家康の養子となり、「松平」姓の使用を許された。徳川家康の孫である松平忠明が作者であれば、書かれている織田家関係のことの信憑性が低くても、徳川家関係のことは史実(に近い)と思われる。

(2)堀尾吉晴が城主の時代

天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐が行われ、徳川家康が関東に移封されると、徳川の城には、豊臣家臣が入り、「織豊系城郭」(近世城郭)に改修しました。

・岡崎城主は田中吉政に
・吉田城主は池田照政(輝政)に
・浜松城主は堀尾吉晴に
・掛川城主は山内一豊に
・駿府城主は中村一氏に

※浜松城は、天正18年(1590年)から堀尾吉晴・忠氏親子が合わせて11年間在城したが、「関ヶ原の戦い」の前哨戦での戦功により、堀尾氏は出雲国松江24万石に加増転封された。また、堀尾吉晴が建てた浜松城の天守の絵図は見つかっておらず、どのような姿であったか分かっていない。

※平成30年(2018年)10月、駿府城公園の発掘調査で、豊臣秀吉が中村一氏に築かせた天守の石垣や金箔瓦などが発見されて話題になった。

「織豊系城郭化」とは、「城域を拡張し、石垣と天守を持つ城(権力の象徴としての城)に変える」ということです。

浜松城の城域

城域の広さは、小田原城と江戸城がダントツで、次は池田照政(輝政)の吉田城、姫路城、豊臣秀吉の大坂城、田中吉政の岡崎城です。浜松城の城域は、これらの城に次ぐ広さで、広さではトップテン入りするとのことです。(現在、浜松城の大半は市街地化されて浜松市役所などになっており、当時のままではありません。)

浜松城の石垣

浜松城の石垣は、天守曲輪と本丸の周囲にあります。徳川家康は、本丸の周囲を数段の石で囲んだようですが、堀尾吉晴は天守曲輪を設け、石垣を高くしたようです。

浜松城の石垣(野面積み)

浜松城の石垣の石は、浜名湖畔で珪岩を採取し、石船で佐鳴湖(徳川家康の正室・築山殿が自害した場所)へ運ばれ、そこからは陸上輸送で浜松城へ運ばれたようです。

城の石垣には、石の加工程度によって「野面積み」「打込み接ぎ」「切込み接ぎ」、石の積み方によって「布積み」「布積崩し」「乱積み」という種類があります。浜松城の石垣は、「野面積み」であり、「布積み(布積崩し)」です。また、石と石の隙間に詰める間石(間詰石)を「ゴロタ石」(五郎太石)といいます。

《石の加工程度による分類》
・野面積み(のづらづみ):接合面や表面を加工しないで積み上げる。
・打込み接ぎ(うちこみはぎ):接合面や表面を加工し、隙間や出っ張りを減らす。
・切込み接ぎ(きりこみはぎ):接合面や表面を平らに整形して隙間や出っ張りをなくす。
※岡崎城ではこの3種類の石垣を見ることができるので、また岡崎城の記事で解説予定。

《石の積み方による分類》
・布積み(ぬのづみ、整層積み):目が横に通るように積み上げる方法
・布積崩し(整層乱積み):横目を通さない布積みの発展型
・乱積み(らんづみ、乱層積み):さまざまな方向に組み合わせて積み上げる方法

※歴代尾張藩主の幼名「五郎太丸」について
「九男義直が生まれた。幼名を千千代。その後に五郎太丸と名乗る。五郎太丸という幼名は家康自らつけたもので、城壁を築く際に大石巨岩を積み重ねるが、その間に「くさび」として五郎石を用いなければならない。その意味で、この子は天下の「くさび」となってくれるだろうという切なる家康の願いでつけたといわれ、いかに可愛がっていたかがわかる。後に義直と改名し尾張初代藩主となるのであるが、その後、尾張家では代々の世子に五郎太丸と名付けるようになった。」(相応寺公式サイト(http://www.sououji.com/okame/index.html)より引用)

「浜松城の石垣 野面積み」案内板(浜松城)

「浜松城の石垣 野面積(のづらづ)み
浜松城の石垣は見るからに荒々しく、外観は粗雑で一見崩れやすそうに思えますが、四百年の風雪に耐え、今なお当時の面影を残している重要な遺構であり、史跡浜松城跡の中で文化財として価値の高い部分です。この石垣は、基本的には野面石(自然のあるがままの石)を使い、接合部(合端)をほとんど加工しないで積む野面積みという方式です。慶長(1596-1615年)以前はこの方法が多く用いられていたと言われています。各段の積み方は、布積と呼ばれる、石材を一段ずつ横に並べて据えながら積み上げ、布の横糸が通ったように積む技法が採用されています。しかし石材があまりにも荒々しくて不揃いなことから横の通りが乱れた部分が多くあり、布積崩しと呼ばれることもあります。不整形な石を積むとはいえ、原則的には石の大きな面を表にし、小さな面を内にして積みます。隙間に背後から飼石を入れて、石が動かないように固定します。背後(内側)には多量の栗石を詰めて強化します。栗石は約1~1.5メートルほど詰めてあり、更に砂利を入れてあるので水はけも良く、水圧で崩れることはありません。石垣を正面から見ると、石と石の隙間に小さな石が詰めてあります。これを間石と呼びます。この石は、石垣を成形する効果だけで、石垣を強化する効果は持っていません。間石が抜け落ちる程度の方が石垣は頑丈だと言えます。浜松城は、特に天守台と天守門付近の石垣が堅く、石も大きなものが使われています。また、突角部には長方形の石材を、小口と側面が交互になるように配した算木積み法を用いています。石垣の斜面は直線的で、57度~78度の傾斜をしています。石垣に用いた石材は珪岩と呼ばれる石がほとんどで、そのほか石灰岩、結晶片岩などが見られます。珪岩は浜名湖北岸の山々で見られ、現在の庄内地区の大草山や根本山、対岸の湖西市知波田付近で切り出され、佐鳴湖東岸まで船によって運ばれ、そして、浜松城まで運ばれたと推定されます。この石垣がいつの時代に築かれたかについては正確な資料がないのでわかりませんが、浜町城二代目城主堀尾吉晴の頃(1590年頃)という説が有力です。」(現地説明板)

屏風折の石垣(浜松城の天守曲輪)

天守曲輪の縄張り図(現地案内板)

「天守曲輪(てんしゅぐるわ)の石垣
天守曲輪の石垣の特徴 〜邪(ひずみ)と屏風折(びょうぶおり)〜
天守曲輪に残る石垣は、斜面上半部だけに石を積んだ「鉢巻石垣(はちまきいしがき)」に分類できる。石垣の平面形には屏風折(びょうぶおり)や出隅(ですみ)、入隅(いりすみ)が随所に見られる。こうした複雑な形状は、戦闘時に迫る敵に側面から攻撃を加えるための工夫である。邪(ひずみ)は輪取り(わどり)ともいい、天守曲輪西側の埋門(うづみもん)南側で観察できるが、国内の現存例は多くない。さらに南に行くと、一旦鎬隅(しのぎすみ)になった後に屏風折がある。いずれも横矢掛(よこやがかり)という防御の技法で天守曲輪からの死角をなくす事ができ、防御機能が高くなる。天守曲輪南東側には出隅があり、このような部分が大規模になると櫓が建てられる。一方、本丸北西隅には入隅があり、入隅は多くの城郭で見ることができる。」(現地説明板)

これだけ専門用語が多い説明板は珍しいのでは?

要するに、天守曲輪の「鉢巻石垣」(下が土塁、上が石垣。逆に、下が石垣、上が土塁なのは「腰巻石垣」)は、邪(曲面)や屏風折(ジグザグ)と呼ばれる技法を使っていて、出隅(出角)、入隅(入角)同様、敵の側面から矢や鉄砲で攻撃する「横矢掛り」が可能となっているということですね。

猪目(いのめ)石(大小各1)

石垣の石の中にハート型の石があり、「この石の下で告白すれば、必ずOKされる」という都市伝説があります。(浜松城まで来てくれたという時点でOKが確約されていたと思いますけどね。)

この石の形は「ハート」ではなく、「猪の目」です。猪は「不審者や火事をいち早く見つける」と言われ、「魔除け」として使われます。(今で言えば、SEC●Mのシールを玄関に貼るようなものです。)

浜松城の天守

「てんしゅ」の漢字表記は「天守」(徳川将軍に憚って「殿主」「殿守」とも。建築学用語は「天守」)で、「天守閣」は明治時代以降の俗称です。そして、その種類には、現存天守、復元天守、復興天守、模擬天守があります。

・現存天守:現代まで保存されている12天守(「国宝五城」と「重文七城」)。
・復元天守:当時のままに復元した天守
・復興天守:天守があった場所に建てられた天守
・模擬天守(天守風建物):天守のなかった城や観光施設などに建てられた天守

浜松城の復興天守(もしかして模擬天守?)と天守門

浜松城の天守は、現存天守ではなく、昭和33年(1958年)のRC造(鉄筋コンクリート造、Reinforced Concrete)の天守です。先に書いたように、絵図が残っていないので、「復元天守」ではなく、「復興天守」になります。(「浜松城の天守の絵図がないのは、浜松城には天守が無かったからだ」と言うのであれば、「模擬天守」になります。)

浜松城の絵図には、天守曲輪が描かれ、その中央に天守台(天守が建てられる(専門用語では「上げられる」)土塁や石垣が積まれた高台のこと)があります。浜松城の天守台には、

・敷地面積が広い。
・付櫓が突出している。
・穴蔵(地階)があり、井戸がある。

という特徴があり、この3条件を備えた天守台は、堀尾吉晴(慶長16年(1611年)6月没)が建てた松江城(慶長16年1月落成。堀尾忠氏は慶長9年(1604年)8月没)の天守台だけだそうです。国宝である松江城の現存天守は、姫路城に次いで全国第2位の大きな天守であり、「もし、浜松城の天守が現存していたら、全国トップファイブの大きさであるはず」とのことです。さらに平成30年(2018年)10月30日、天守曲輪の南東角で、堀尾吉晴城主時代の巨大な隅櫓の基礎が発見されました。絵図に載っていない堀尾吉晴城主時代の構造物(隅櫓)の発見は、「絵図に載っていから、堀尾吉晴城主時代には天守はなかった」という意見に対する反論の材料になりました。

全国トップテンの広大な土地に、全国トップファイブの大きさの天守・・・堀尾吉晴時代の浜松城が見てたくなりました。VRなら可能でしょう。ちなみに現在の天守の大きさは、全国の天守の下から3番目だそうです。小さい・・・まぁ、小さくても、あるとないとでは大違いですけどね (◜௰◝)

穴蔵(地階)の井戸

「天守曲輪

浜松城の天守台周辺には、本丸とは別に天守曲輪と呼ばれる区画が築かれている。この天守曲輪の出入口として東に大手である天守門、西に搦手の埋門を配置している。浜松城の天守曲輪は東西56m、南北68mで、石垣の折れ曲がる角度が様々で、複雑な多角形をしている点が特徴である。これは自然の山の形を反映した結果と考えられ、石垣造りの曲輪としては古相を留めた形といえる。また曲輪の外周には土塁が巡らされていたと考えられる。天守曲輪は掛川城、和歌山城等にも見られるが、類例は決して多くない。掛川城は浜松城第二代城主堀尾吉晴の同輩である山内一豊が、和歌山城は豊臣秀長がそれぞれ築いており、豊臣秀吉と深く関わる遺構といえる。」(現地説明板)

「天守台

浜松城の天守台は、一辺21mのややいびつな四角形をしていて、西側に八幡台と呼ばれる突出部が付いている。また東側には、付櫓と呼ばれる張り出し部分があり、現在は復興天守閣への入口として利用されている。浜松城の天守は第二代城主堀尾吉晴の在城期(1590頃)に築かれた説が有力だが、17世紀の絵図には天守が描かれていない事から、江戸時代前期には天守が失われていたと考えられている。昭和33年に作られた現在の復興天守閣は、天守台の大きさと比べると小さいものである。かつての浜松城は、築城時期等から大きな屋根を持つ下層部の上に小さな望楼が載せられる「望楼型」であった説が有力である。その規模は天守台の大きさから推測すると現在よりも一回り大きい三重四階で、巨大な天守だったと考えられる。」(現地説明板)

(3)徳川譜代が城主の江戸時代

江戸時代の浜松城(現地案内板)※下が北

江戸時代には譜代大名が浜松城主となり、出世していったので、浜松城は「出世城」と呼ばれました。(風水師によれば、浜松城が風水的にいいのではなく、浜松の町全体が風水的にいいらしい。)

今回の旅でゲットした物

今回の旅では、続日本100名城のスタンプ以外に次の物をゲットしました。(全て浜松城でゲット (๑˃̵ᴗ˂̵)و )

・浜松城天守閣再建60周年記念プレミアム入場券(200円)
・無料パンフレット3種(浜松城、犀ヶ崖古戦場、浜松市中心部徒歩観光コース)
・浜松城スタンプ
・御城印(300円)

https://www.entetsuassist-dms.com/hamamatsu-jyo/info/detail/414

さて、浜松城へ行かれた方の感想は、

・好評:「駐車場が広くて無料」「天守(資料館)の展示品が充実していて200円が安く感じた」「野面積みの石垣が荒々しく、戦国時代らしくてカッコいい」「いい雰囲気の都市公園でした」
・悪評:「天守が小さい」「水堀がなかった。日本庭園に滝や小川はあったが」

といったところです。

浜松城には石垣があり、RC造とはいえ天守があるので、「お城らしいお城」です。とはいえ、現存天守でも、木造の復元天守でもなく、復興天守(もしかしたら模擬天守)であり、城域も大半が市街化されているので、「徳川家康が17年間過ごした城」という知名度だけでは「日本100名城」には選ばれませんでした。でも、でも、「続日本100名城」には入りました (◍•ᴗ•◍)

無料駐車場は体育館跡地なので広く、平日はガラガラでしたが、ス●バが出来てからは平日も半分ほど埋まってます。土日は時間帯によっては満車です。

※「浜松城公園」サイト
https://www.entetsuassist-dms.com/hamamatsu-jyo/

浜松城周辺の見所

「家康の散歩道」案内(犀ヶ崖古戦場)

徳川家康ゆかりの地巡りは、「家康の散歩道」として整備されています。

しかし、この「家康の散歩道」というのは、JR浜松駅付近の「徳川秀忠公誕生の井戸」から、築山御前を介錯した刀を洗った佐鳴湖付近の「太刀洗の池」まで歩く散歩道で、総距離は10km、所要時間は徒歩2時間+見学時間と結構ハードなので、浜松城を中心とする「東照宮コース」や「三方原合戦コース」がお薦めです。

・「家康の散歩道」(浜松城のパンフレットにもあります。)
https://hamamatsu-daisuki.net/ieyasu/
・「東照宮コース」(初心者向けコース)
https://hamamatsu-daisuki.net/course/course10.html
・「三方原合戦コース」(三方原合戦ゆかりのコース)
https://hamamatsu-daisuki.net/course/course11.html

城郭「引間城」(東照宮)

引間城跡(左から西遠連合報徳社浜松報徳館、東照宮、元城町公民館)

※東照宮:東照大権現(徳川家康)を祀る神社。「日本三大東照宮」とは、久能山東照宮(静岡県静岡市)、日光東照宮(栃木県日光市)、第3は、名古屋城東照宮(愛知県名古屋市)とされていたが、空襲で焼失し、滝山東照宮(愛知県岡崎市)か、鳳来寺山東照宮(愛知県新城市)だという。全国に約700社あったが、明治維新で廃絶社となり、現存するのは約130社である。

・東照宮 静岡県浜松市中区元城町111-2 ご祭神:徳川家康公、事代主命、大国主命

「明治維新後、浜松藩代たりし旧幕臣井上八郎氏(延陵)に依り、明治17年元城町字古城(旧曳馬城跡)に創建せられ、その管理祭祀を大日本報徳社に委ねていたが、昭和11年その所有権が井上家より、亦管理権が大日本報徳社より各々大石氏に引き継がれ、その後元城町の氏神として奉斎する事となり村社に列せられた。昭和20年戦火により焼失せるも、昭和34年社殿、手水舎、社務所を再建し今日に至る。」(『浜松市神社名鑑』)

http://shizuoka-jinjacho.or.jp/shokai/jinja.php?id=4414039

・旧・東照宮(現・三方原神社) 静岡県浜松市北区三方原町562 ご祭神:徳川家康公(徳川秀忠公、家光公を合祀)

「明治3年徳川幕臣たちが入植以来八幡宮を信奉していたが、氏子の創意で久能山東照宮に願い元城神社を大正11年6月三方原に移し村民の精神のよりどころとした。昭和31年7月9日、三方原神社と改称し現在に至る。」(『浜松市神社名鑑』)

http://www.shizuoka-jinjacho.or.jp/shokai/jinja.php?id=4414053

「曳馬城跡」碑と案内板

東照宮の二公像(徳川家康と豊臣秀吉の像)

無料アプリで徳川家康に変身!

引間城(「ひくま」の漢字表記には「曳馬」「曳駒」「疋馬」「引馬」「引間」などあるが、城の名前に関しては、浜松市では、徳川家康入城以前は「引馬」、以後は「引間」で統一)は、豊臣秀吉と徳川家康の出世の足がかりとなった城であることから、「出世の最強パワースポット」とされ、「東照宮の二公像の間に立って写真を撮ると出世する」という都市伝説があります。その際、無料アプリをダウンロードすれば、徳川家康(勝ち草(沢瀉ではなく羊歯)の兜バージョン)に変身することも可能です o(・ω・。)

ゆるキャラと戦国武将隊

出世大名家康くんと出世法師直虎ちゃん

ゆるキャラ

・「浜松市福市長」出世大名家康くん(2015年ゆるキャラグランプリ優勝キャラ)
・出世法師直虎ちゃん(2017年NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』の放送を機に登場)

本多平八郎忠勝と蜻蛉切(浜松徳川武将隊)

浜松徳川武将隊

・徳川家康
・徳川家康の長女・亀姫(浜松徳川武将隊葵組)
・「徳川四天王」酒井忠次
・「徳川四天王」本多忠勝
・「徳川四天王」榊原康政
・「徳川四天王」井伊直政
・おんな城主直虎と頭陀寺城・松下屋敷おんな三人衆(清景、常慶、おりん)

白き虎の如く直虎様の刃となり、鋭い爪と牙の如きこの剣で並みいる敵を斬り伏せる。井伊家の戦神・白虎こと松下清景!

紅き炎の如く直虎様の知恵となり、不屈の精神で戦乱の世の行く末を照らす。井伊家の軍神・朱雀こと松下常慶!

黒き水の如く直虎様の影となり、鋼の甲羅と鋭い鱗で、刃向かうものを打ち伏せる。井伊家の闘神・玄武こと松下おりん!

基本的に、毎週日曜の

13:00-13:40 家康くん&直虎ちゃんショー(司会は亀姫)+写真撮影
13:40-14:20 浜松徳川武将隊の演武+殺陣体験

となっています。(変更することもありますので、事前に公式サイト&twitterでご確認ください。)

写真撮影では、亀姫(わが街・浜松宣伝部長H&A.の元リーダー・大木サキさん)も加わって「大出世ポーズ」で撮影します。殺陣体験の時に羽織る陣羽織は、浜松市出身の百田夏菜子さん(ももいろクローバーZのリーダー)が着用されたものですが、大きめサイズなので、成人男性でも着られます。

※「出世大名家康くん」公式サイト https://www.ieyasu-kun.jp/
※「浜松徳川武将隊」公式twitter https://twitter.com/HAMA_tokugawa

以上で浜松城の攻略終了!

さて、次はどの城を攻めようかな。

コメント(ご意見、ご感想)お待ちしてます m(_ _)m

関連記事:
長篠城へ行ってみた【日本100名城】
古宮城へ行ってみた【続日本100名城】
吉田城へ行ってみた【続日本100名城】
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城田涼子

城田涼子

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城田涼子(きだりょうこ)
旅が好きです。 戦国時代の史跡巡りとか、温泉巡りとか好きです。美味しい郷土料理も(笑) 
記事へのコメントお待ちしてます♥

コメント

  1. アバター

    浜松城の正面はどっち?
    https://note.mu/ryouko/n/n99b9369d34e8

    0
    0
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