こんにちは、新井桜奈です。
旧姓、丸山です。
こちらは、構成作家、ライターであり、
カウンセラー、セラピスト、ミディアムヒーラーでもある
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切なく寂しい夢をみた
目が覚めたら登場人物はあとかたもなく消えた
その消えっぷりが潔すぎて、そのイリュージョンに感動した
現実の自分も、潔く消えているのだとわかった
切なさと寂しさだけが残っているように、感動だけがあるのだとわかった
だから何が起きても大丈夫なのだ
自分も他者もいないって本当
誰もいないって本当
誰もいないなかで、出来事と想いだけが起こってゆく
出来事も想いも誰のものでもない
起こることが起こってゆくから、何も思いわずらうことはない
思いわずらってもいいけど、自分が思いわずらってるわけじゃない
人が死ぬと不思議な安堵感に包まれることがある
その人が全体に溶け、全体に溶けている自分と溶け合えたことがうれしいからだと思う
「私」はすでに死んでいるのに、どうして死ぬことを恐れることができるだろう
「私」が織り成す錯覚とイリュージョン
「死ぬことを恐れることができる」ってイリュージョン
眠るのがうれしいのは「私」がいなくなるから
眠るのが寂しいのは「私」がいなくなるから
起きるのがつらいのは「私」が何かをできると思ってるから
起きるのがうれしいのは「私」が何かをできると思ってるから
どちらだっていい
そもそも「私」はいないから
委ねることが必要なのは、我を捨てることが必要なのは、「私」はいなかったことを思い出すため
結果として幸せとミラクルと錬金術が起こる
カラダがただ動いてるだけ
想いがただわいてくるだけ
その相互作用で出来事が起こる
だから出来事に振り回されるのは本末転倒
2016年9年9日は大きなターニングポイントで、すべてが手放され完了する日だとは前から知っていたまさか起きたら「私」が手放されてるとは思っていなかった
すべてが手放されてしまった
でも「私」が「私」を手放すことはできない
手放す「私」がいないから
起こるのをみてるだけ
でも、たぶん時間の問題でまた「私」は戻ってくるだろう
「我を捨てたら幸せになる」っていうストーリーを楽しむためのお戯れ
お戯れのお戯れ
光のお戯れ
光の目覚め遊び
(2016年9月9日『私はいない覚書』より)
できることなら常に目覚めつづけていたいものですが、どうも人生というものは眠りのストーリーで遊ぶことが好きなようです。
眠りのストーリーには、悲劇もあれば喜劇もありますが、目覚めてしまえばすべてが喜劇で、そしてあとかたもなく空に消えていきます。
目覚めているときも、眠っているときも、人生が好きです。
どうぞ遊びにきてくださいね。
ISONOMIYA
新井桜奈
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