2016年9月9日「私はいない」覚書き

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切なく寂しい夢をみた。
目が覚めたら登場人物はあとかたもなく消えた。
その消えっぷりが潔すぎて、そのイリュージョンに感動した。
今の現実の自分も、潔く消えているのだとわかった。
切なさと寂しさだけが残っているように、感動だけがあるのだと思った。
だから何が起きても大丈夫なのだとわかった。

自分も他者もいないって本当。
誰もいないって本当。
誰もいないなかで、出来事と想いだけが起こってゆく。
出来事も想いも誰のものでもない。
起こることが起こってゆくから、だから何も思い煩うことはない。
思い煩ってもいいけど、自分が思い煩ってるわけじゃない。
 

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人が死ぬと不思議な安堵感に包まれることがあるのだけど、それはその人が全体に溶けたことを、全体に溶けている自分と溶け合えたことがうれしいからだと思う。

「私」はすでに死んでいるのに、どうして死ぬことを恐れることができるのだろう。
「私」が織り成す錯覚とイリュージョン。

「死ぬことを恐れることができる」って奇跡だよ。

眠るのがうれしいのは「私」がいなくなるから。
起きるのがつらいのは「私」が何かをできると思ってるから。
眠るのが寂しいのは「私」がいなくなるから。
起きるのがうれしいのは「私」が何かをできると思ってるから。
どちらだっていい。そもそも「私」はいないから。
委ねることが必要なのは、我を捨てることが必要なのは、「私」はいなかったことを思い出すため。
結果として幸せとミラクルと錬金術が起こる。

カラダがただ動いてるだけ。
想いがただわいてくるだけ。
その相互作用で出来事が起こる。
だから出来事に振り回されるのは本末転倒なのだよ♡

2016年9年9日は大きなターニングポイントで、すべてが手放され完了する日だとは前から知っていた。
まさか起きたら「私」が手放されてるとは思っていなかった。
本当にすべてが手放されてしまった。
でも「私」が「私」を手放すことはできない。
手放す「私」がいないから。
起こるのをみてるだけ。
でも、たぶん時間の問題でまた「私」は戻ってくるだろう。

「我を捨てたら幸せになる」っていうストーリーを楽しむためのお戯れ。
お戯れのお戯れ。

「私」が今日こうなったのは、昨夜ダーリンが頭のネジが外れた非常識なことを言ったからだと思う。
クレイジーすぎて笑ってしまった。
クレイジーさは我を飛ばす作用があるね。
クレイジーな人が嫌われるのは、「自分という存在」がおびやかされるから。
クレイジーな人が愛されるのは、「自分という存在」を消してくれるから。

覚書
 
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