矛盾に満ちた支離滅裂な人たちが集まった、ひとりの人生を体験することは、おもしろい

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夜中にとつぜん、目が覚めて。
ふとネット上の過去の日記を読み返していた。

2004年から2009年くらいまで、28〜33歳頃の5年間。

この5年間は、
女としての幸せ、仕事、お金、人間関係、住んでいる場所や部屋、物質的豊かさ…欲しいものすべてを手に入れ何もかもがうまくいっていて人生ナメきって調子に乗っていた時期と、

自分が無意識にひいた引き金によって、持っていたそれらすべてのものを失って心身ともに壊れてボロボロになっていた時期とにわかれていた。

その落差が激しすぎて、これからの人生をどのようにして生きていったらいいのか、人生というものをどのようにとらえたらいいのかが分からなくなった、戸惑いに満ちたアラサーの女性がいた。

人生の答え、生きていることの意味、器用な生き方を求め、起死回生を懸命にはかっていた。

すべてを手に入れ悦に入っていた自分が、実はメッキで塗り固められたニセモノの虚像ように感じられて、それらを手に入れるためにがむしゃらにがんばって努力してきたそれ以前の自分の人生や生き方すらも、「私のすべてがまちがっていた」と自分自身やそれまでの人生を否定するような言葉に満ちていた。

対象不明の罪悪感と失敗感、自分にウソをついて生きてきた自分に対する絶望感に苛まれていた。

「人生の意味を知りたい」
「私は誰?」
「真実を知りたい」
「本質を生きたい」
そこにたどり着きたい。

幼い頃から持ちつづけてきたその意欲と衝動だけが、当時の私を生かすための原動力となっていた。

2008年32歳頃から、私の人生はそこに向かって動き出していた。

当時の自分に必要な情報や知識や智慧や方法や手段が集まりだし、私を助け導いてくれる人たちとの出会いが立て続いて起こり、私は少しずつ、自分自分を思い出していった。

取り戻していったのではなく、思い出していった。

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当時は自分が何をしていたのか、よく分からなかったのだけど振り返ると、ニセモノな自分を責めたり、うまくいかないことを人のせいにしたり、自分のまちがいに気づいて正したりと、とにかく七転八倒、四苦八苦する毎日だった。

転機が訪れたのは2010年。
ある人との出会いによって、社会的にはつらい立場を体験しながらも、それまでの自分を覆っていたメッキや鎧が剥がれていき、魂の自分がみるみる顔を出してきて、どんどん生きる意欲を取り戻していった。

2016年40歳になったいま。
過去の日記を読み返していて、何もわかっていなかった未熟な過去の自分を突きつけられ、恥ずかしくなったり苦笑したりしながらも、それらのプロセスや時間や人との出会いのすべてを愛おしく感じている。

過去の自分は、未熟で何もわかっていなかったことすら分かっていなかった。
自分はいろいろと分かったようなつもりになっていた。

それはおそらく今でもそうなのだと思う。

ただ、
「人生の意味を知りたい」
「私は誰?」
「真実を知りたい」
「本質を生きたい」
そこにたどり着きたい。

これらの欲望や欲求はかなり薄れてきた。
それらは常に、目の前と後ろにあって、自分だと思っているものとピッタリくっついているということに、少しずつ気づけるようになっていったから。

それらの欲望や欲求が生まれるということは、自分が真実や本質からは程遠いと思い込んでいるということになる。

それ自体がまちがいで、本当は真実や本質から離れたことは一度もなかったのだと、最近は思う。

自分がメッキや鎧に包まれたニセモノの虚像だったとしても、それは思い込みで、それすらも真実や本質の一部なのだと思う。

とはいっても、真実を追い求め、本質に戻りたいという欲望や欲求がまったくなくなったわけではなく、日常のなかで、ちょいちょい顔を出してくる。

ただそれらを渦中で体験、観察しながら、同時にエンターテイメントとして楽しめるようになってきた。

深刻さがなくなって、日常生活と哲学的追求の欲望が同居できるようになったのかもしれない。
乖離が統合されてきたのかもしれない。

今こうして書いていることも、きっと10年後20年後に読み返すと、同じように未熟で恥ずかしいと苦笑しているのかもしれない。

それでいいのではないかと思う。

深夜にふと読み返して、未熟すぎてアホすぎるアラサー時代の日記が恥ずかしすぎて。
そして今の自分とは別人すぎて違和感があったので一瞬、すべてを削除しようかとも思ったのだけどやめた。

未熟すぎてアホすぎて恥ずかしすぎる、メッキと鎧にまみれた当時の自分も、本質の一部。

それを削除するということは、30代前半に、うまくいっていた人生からすべてを失って「私はまちがっていた」と過去のすべてを否定したのと同じことをすることになってしまうから。

時系列でみれば、今の自分と過去の自分は繋がっていて少しずつ変化してきたようにみえるけれど、時系列から外れてみると実際は自分が変化したのではなく、そもそも別の人なのだと思う。

別の人の体験や学びを、今の私に抹殺する権利はない。

「統合」とは、そのようにして起こっていくのではないかと思う。

数十分前にこの記事を書き始めたときの私と、今の私も、別の人。

ひとりの人生のなかに、たくさんの別の人たちが生きている。
その一人一人を大切に抱きしめては、受け流していく。

今の私は、数十分前にこの記事を書き始めた別の人である私に「真面目だな、おい!」とツッコミを入れている。

矛盾に満ちた支離滅裂な人たちが集まった、ひとりの人生を体験することは、とてもおもしろい。

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