神を手放す、ということ

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あけて2月になりました。
もうすぐ節分、そして立春。

私のなかでは、本当の年末年始はこの時期ということになっています。
旧暦にはそのような意味合いがありますが、エネルギー的にも「本当に一年が終わり、一年が始まるな」という感覚がするのです。

12月と1月をまたぐ年末年始は、人間世界的な感じ。
2月の節分と立春をまたぐ年末年始は、自然界、真理、宇宙、すべての終わりと始まりのような感じです。

1月を一ヶ月過ごしてみて、やっと昨年のすべてを手放す準備ができる。
そのような感覚です。

そのため、私は毎年この時期に本当の意味での年納めと初詣をします。

年納めは2月1日〜3日のいずれかの日に、門前仲町の深川不動尊で護摩焚きを受けて一年間のよかったことも悪かったこともここですべて手放し、リセットします。

そして、立春である2月4日近辺には、私の産土神が祀られている溜池山王の日枝神社へ初詣。

12月と1月をまたぐ年末年始の初詣には、友だちや家族とわいわい賑やかにお祭気分で行きますが、エネルギー的な年末年始の節分立春は、自然とひとりでひっそり粛々と、この行事を15年ほど前から行なってきました。

自分のなかのこの区切りを行なうことで、新年が本格的にスタートします。
これまで毎年、ひとりでひっそり粛々とこの行事を行なってきましたが、今年は年納めの護摩焚きや深川不動尊の魅力をご存じない方にご紹介したくて、ツアー企画を立ててみました。

『Love ∞ Soul〜深川不動尊 護摩焚き&大日如来メッセージツアー&お茶会〜』
(終了しました)

いよいよ明日なのですが、これまでのひとり粛々パターンとちがって今からワクワクしています。

先ほど、昨年一年間、お世話になったお札やお守り、おみくじをサンクチュアリやお財布やポーチなどからかき集め、白い布で包みました。
深川不動尊の『古札納所』に返納して、新年に新しい仏さまや神さまをお迎えするための準備です。

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全部で4つのお札に、お世話になった方やお友だちからいただいたお守りが5つ。

なぜか清水寺のお守りが3つもあって驚きました。
すべて、べつべつの友人からのプレゼント。
昨年は間接的に清水寺とご縁があったのだなと思いを馳せました。

じつは2年半、なかなか手放せないでいたものがありました。
それは、京都鞍馬寺尊天さまのお札と三角錐のお守りキーホルダー。

鞍馬寺のご本尊である「尊天」とは、
月輪の精霊(愛)=千手観世音菩薩 (女性性)
太陽の精霊(光)=毘沙門天王 (男性性)
大地の霊王(力)=護法魔王尊 (真理)が
三身一体となった、私のなかでは完ぺきに感じられる存在です。

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護法魔王尊が降り立った場所といわれている六芒星
ここに立つと、脳天から股下までエネルギーがストーンと突き抜けて自分自身が筒のような状態、無になります

男性性と女性性、そして宇宙の神が一体となった存在は、私にとってなかなかにパワフルで、2年半、何かとあれば思い出してはご加護をいただいていました。
あまりにパワフルで相性もよかったので、なかなか手放せないでいたのです。

今回も返納するかどうかとても迷ったのですが、環境も名字も変わったことだし、2年半前とは状況がかなり変化したため今年、思い切って手放すことにしました。

返納すると決めたら、一気に怖れと寂しさの感情がわいてきました。
恋人とお別れするような感覚です。

このとき、鞍馬寺の尊天さまが私のなかで偶像となっていたことに気づきました。
恋をしていたのですね。

偶像崇拝、恋をしていたということは「その存在が自分とは離れている、べつべつの存在と思っている」ということを意味しています。

「尊天(男性性、女性性、真理のバランスが取れた存在)は、自分ではない」というわけです。
「私は自分のことをそんなにも低く見積もって、みくびっていたのか」と気づかされて驚きました。

気づきながらも、やはり鞍馬寺の尊天さまとお別れするのは寂しくて怖いのです。
裸一貫になってしまうような、この世でひとりぼっちになってしまうような感覚です。
自分がどれだけ尊天に執着し、愛着を持っていたかがわかります。

また鞍馬寺に行って新しいお札やお守りをいただいてくればいいのに、すぐに行けるとは信じていない。
何より「自分のなかに存在している」と信じられない。

「そうかそうか、私はどうしても自分のことをバランスが取れた完ぺきな存在ではないと思いたいのか」と、いったんこの思いや思い込みを肯定し、そのままにしておくことにしました。

自分のことを「男性性と女性性と真理のバランスのとれた完ぺきな存在」だと思うと、またそのような存在になってしまうと、困ってしまうデメリット(あるいは、それよりも大切にしているメリット)があるようです。

完ぺきな存在になってしまうと「人から疎まれてめんどうなことになる」だとか、「孤独になる」だとか、「失敗できなくなる」だとか、「万が一、失敗したら取り返しがつかなくなる」だとかいったところでしょうか。

恐るべしエゴの罠。
人はこのようにして、自分のことを低く見積もり、価値を下げ、チャレンジしたいことにチャレンジせず、成功が目の前にやってきても素直には受け取らず、苦労をしたがるもののようです。

幸せになったり欲しいものを受け取ったり成功することよりも、これらの自分でいたほうが安全だと思い込んでいるのです。

明日の護摩焚きで、その思いや思い込みがどのように変化してゆくのか、楽しみです。
このように、お世話になったお札やお守りを神社仏閣に返納するときの感情に目を向けてみると、思わぬ自分の在りようやパターンが見えてきます。

「自分が信じている、愛着のある存在(神)を手放す」というプロセスは、とてもパワフルです。

大事なものほど、手放したほうが思わぬすばらしいものが転がり込んでくるからです。

それは、神的な存在だけでなく、大切な人やペット、仕事、趣味でも同様のことがいえます。

そのことを頭や知識では知っていながらも、実際のプロセスや感情レベルでは、このようなことが起こるのです。

明日の『Love ∞ Soul〜深川不動尊 護摩焚き&大日如来メッセージツアー&お茶会〜』(終了しました)
の参加者さんにも、護摩焚き前のお茶会でこのプロセスを体験していただこうと思っています。

いいことも悪いことも手放して、心機一転して立春と新年を迎えます。
立春前にエネルギー整理をしたい方、ぜひに♡

明日お会いする方、楽しみにしております^^

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