ウエサク満月に受け取ったもの、「いい意味での母の正しさ」

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今年のウエサク満月。
部屋の掃除、空間浄化、スマホの大幅情報整理、書類整理、お風呂でオルゴナイトを使ってのエネルギーワーク、臓器クリアリングをしました。

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クリアリングして最初に入ってきたもの。

「母からの悩み相談長文メール」

変わってない。
小学生高学年から変わってない。
自分でほんとのとこの感情に触れらない痛みのあるレベルの深いやつ。

普通これ、母娘、逆だよね。
だから私は子どもの頃から母に悩み相談ができなかった。
相談しても的外れな返答しか返ってこなかった。

だから私は母を、「母親の座」からクビにした。
母からの相談メールが苦痛で仕方なくて、いつも説教ばかりしていた。

だけど、いつの間にか母から送られてくる一方的な悩み相談メール(しつこいけど、自分がほんとは何に悩んでるのか自覚してないやつ)を自然とただ受け入れて寄り添えるようになってきた。

解決策は提示しない。視えてるけどあえて伝えない。

ただ悩みを整理して、母を肯定する。共感する。母の精神力と未来を信頼する。

私も大人になったものです。

多分、これができるようになったのは、30代後半に実家に戻った2年のあいだに、物理的に甘え倒したからだと思う。

母が提供してくれるものはいつも物理的なものやお金。

昔はこれがイヤだったけど腹をくくって受け取るように意識して甘え倒した。

一方、私が母に提供できるのは「精神、心のほぐし」。

30代中盤まで母娘逆転現象がイヤだったけど、お互いが求めてるニーズを満たし合えるようになってからは、母との関係がとてもラクになった。

子どもの自分ができることを大人の母ができないことが、ずっと許せなかった。

子どもと大人という言葉上の関係って罠ね。

ただ得意分野がちがう者同士が、ギフトを与え合う。

実は親子はそんな単純なものだったのだ。

とくに私が結婚してからは、物理的物質的な所作、パートナーシップの在り方、義母との付き合い方、結婚した娘への実父の複雑な感情への対処法などを、私からの相談というカタチではないけれど、月に数度、実家に帰る度に自然と提供してくれる。

悔しいことに「結婚に関する母の洞察」は私にとっては正しいのだ。

このあいだは母からさり気なく

「彼のことを大切にしなさいよ。好きな仕事よりもなによりも彼にコミットしなさいよ。それだけですべてのいろいろなことがうまく回り出すから」

と、私がここ10年、理論的体験的に苦しみながら学んできたことをサラリと伝えられた。

母がその境地にいたことも知らなかった。

悔しいけれど、ある分野での母の在り方は私にとって正しかった。
悔しいけれど、私は私の幸せのためにそれを実践していくしかないのだ。

母娘逆転現象はたしかにあったし、だいぶ混乱させられてきたけれど、やはり「母と娘は、母と娘であった」のだ。

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中3の夏に父の転勤で私は青森に転校したのだけど、当時はイヤで仕方なかった。

だって中3の夏です。

友人関係も出来上がり、受験志望校も絞って本格的に勉強せねばというときに、いきなり青森に連れていかれる。

まったくもってドナドナの気分だった。

言葉も文化もちがう場所に中3で移るというのは私にっては地獄以外なにものでもなかった。

だから青森に引っ越して二カ月で、私は足や脚に大やけどを負って「不登校」を引き寄せた。

大やけどの原因は冷やし中華を一緒に作ってた母の手際ミスだったけど、私は母に感謝した。

学校に行かなくて済んだから。

やけどの傷跡は今でも残っているけれど、私はなんとも思っていない。

コンプレックスにもなっていない。

過去に付き合ってきた人たちも、結婚したダーリンも、存在しないかのようにまったく気にしていない。

物理的な傷跡はあるのに、心の傷跡はさっぱり存在していない。

だから、周りも私の物理的な傷に反応しない。

そして青森にいたことで、私はとんねるずや秋元康さんというエンターテイメントや放送作家の先輩と出会えた。

その血脈は今でも私のなかに流れている。

14歳のときの青森転校という出来事が、人生を大きく変えて、そしてそれがお金では買えない今でも恩恵を与えてくれる財産になっている。

青森に行っていなければそれは起こり得なかった。

東京には刺激や娯楽がたくさんあるから、私は簡単に目くらましにあって自分を見失っていたと思う。

おかしな話だけど、私が人生で一番ブレずに自分のやりたいことや自分という存在に集中できたのが、とんねるずや放送作家の先輩に繋がっていた青森での高校時代だった。

あのブレなさ加減、いまでも取り戻したいと思うことがある。

「自立」の段階だからじつは「真実」ではないけれど、まちがいではなかった。

中3だけど私だけ大宮に残って独り暮らしをして、私のその時の希望を叶える選択もあった。

でも母は私が離れることを許さなかった。

母は父とのパートナーシップと家族の幸せにコミットしていた。

25年経った今、その母の判断が私にとって最善なものだったのだと、素直に受け取れている。

淡々と。

「人間万事塞翁が馬」

ウエサク満月2016に受け取ったギフトは、「母との感情的フラットな関係」だった。


(お月様ど真ん中)

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