自分自身のパートナーシップについて、お風呂でいろいろとメッセージを受け取っていました。
(私は「考える」ということをなるべくしないようにしています。ボーッとしているうちにインスピレーションが降りてくるのを待ちつづけます)
今回、ふと思ったのは「私はどうして浮気をしそうな人、浮気をする人を好きになるのだろう?」ということでした。
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私は浮気をされる立場も浮気をする立場も両方、経験していますが、その出来事が起こったとき、どうしても相手とのコミュニケーションや対応に追われて、自分自身との対話がおろそかになっていたのですよね。
その時々の自分の感情や観念の洗い出しや手放し、相手とのコミュニケーションによる関係の前進をはかったりしてはきたけれど、「そもそも、どうして浮気しそうな人、する人に魅かれるのか?」ということについて、きちんと内観したことがなかったことに気づきました。
そこで、「浮気される立場」でも「浮気する立場」でもなく冷静になれている現在、じっくりとそこにあるカラクリについて、ひも解いてみようと思いました。
フリーになって以来「新たなる男性」と出会う機会が多くなってきました。
ふと「あ、この人、いいな♡」と魅力を感じて興味をもち、いろいろと深く話をしてみると、浮気をしそうなフワフワした雰囲気を醸し出していたり、すでにパートナーがいたりして、デートをするまでにこぎつけません。
(20代の頃は見抜けなかったけど、今年40歳を迎えようとしている最近は、すぐに分かるようになりました)
一方、完全フリーで一途そうな人には、ピクリとも心が反応しないのです。
あるいは、告白をされて「この人はいい人そうだし、愛を受け取れそう」と思って実際にデートをしてみても、短時間で死にそうに退屈になって帰りたくなってしまう。困ったものです。
一般的な恋愛論では「浮気しそうな人や、パートナーがすでにいる人に魅かれる」のは、「自分を知らない世界に連れていってくれそうな感じがするから」「すでにパートナーさんによって男として育てられていて、頼もしくたくましく感じるから、そこに魅かれる」と言われますが、そのあたりのことは私はわりとどうでもいいことなのです。
それは表面的な理由にすぎず、本質ではありません。
(親との関係を振り返るという意味では、そこにフォーカスするのは有効だと思います)
「人は鏡」です。
恋愛でも親子関係でも友だちでも仕事仲間でも、私は常にその視点に立って人間関係をみることを心がけています。
「人は鏡」であるならば、「浮気しそうな人に魅かれる」ということは「私が浮気しそうな人物である」ということです。
たしかに私は20代中盤、無意識のうちに浮気をしたことがありました。
けれど、その時に、彼氏を傷つけたことで、懲りたといいますかもう浮気をする気力が失せたのです。
浮気をすることで得られるメリットは何もないことに気づいたのでした。
つきあっている相手ひとりと向き合ったほうがよほどラクだし、お互いの新たな魅力を発見し合ったりできるし、自分自身も安定するからです。
しかし、時間が経つと相手に浮気をされてしまう。
20代後半に自分が浮気をした相手とのパートナーシップを終わらせたあと、2人の人と真剣におつきあいしましたが、もれなく浮気されていました。
(そのあいだにひとり、片想いをした男性がいましたが、その人もヤリチン気味の浮気症で、私を含め三人の女性たちのあいだをフラフラフワフワしていました)
もともと私は一途なはずだし、一対一のパートナーシップがラクに感じるはずなのに、好きになるのは、どうして「浮気しそうな人、浮気をする人」なのか。
「人は鏡である」という法則にのっとるならば、さっきお伝えしたように、それは「私が浮気をするような人物だから」です。
でも、実際のパートナーシップでは、浮気しようという気持ちはわきません。
矛盾しています。
これは一体、どういうことなのか?
どうにもわからなくなり、私はいったんその問題を手放して、湯船からあがり、身体や髪を洗っていました。するとふとメッセージが降りてきました。
「自分自身に対して浮気性なんだよ(笑)」
はっとしました。
『あなたは、自分に対して浮気をしているの。自分をきちんと見ていないの。かまっていないの。外側の世界にばかり気が向いているの。外側の世界や外側の人と自分を比較したり、人に魅かれたりしてばかりいる。自分が自分に対して誠実ではないから、浮気をする人を引き寄せる。
あなたの魅力は? あなたは自分にきちんと魅かれている? 自分に恋をしている? 自分と結婚したいと思えている?
自分が自分に対して誠実になったら、自分をきちんとかまうようになったら、自分自身だけを見るようになったら、「浮気するという概念すら持っていないパートナー」が引き寄せられてくるよ』
なるほどすぎる。
「自己受容すると幸せなパートナーシップが築ける」という本の構成執筆協力をしたことがありましたが、そこにあるカラクリがきちんと腑に落ちていなかったようです。
「バートナーに対して浮気症なのではなくて、自分自身に対して浮気性」
私だけに限らず、よく「浮気をされてしまう人」は、すべからくこの構図が当てはまるのではないでしょうか。
「自分に対して浮気症な自分をつかまえたので、これからガッツリ自分自身とパートナーシップをとっていきましょう」ということです。
男性の友人があるスピーチイベントで突然「自分との結婚式」を披露してくれたことがありました。
「健やかなるときも病める時も、あなたは◯◯さん(自分)とともにあることを誓いますか?」
「誓います」
「◯◯さん、あなたも健やかなる時も病める時も、◯○さんとともにあることを誓いますか?」
「誓います」
彼は一人二役を演じて自分にプロホーズをし、自分自身を抱きしめました。
彼のパフォーマンスに会場は大爆笑でしたが、彼はスピーチイベント本番までに何度も練習したはずです。練習しているうちに、本当に自分自身と結婚したのではないかしら。
彼が、自分の中の「誰」と結婚したのかはわかりません。
自分の中の「長所」と「短所」かもしれないし、「男性性」と「女性性」かもしれません。どちらにせよ、彼はそこで自分自身との統合を果たしたのでした。
私も「自分自身と結婚をしよう」と思いました。
「外側の世界や外側の人を気にしない」=「自分に対して浮気する気が失せる」ということです。
では私は、自分の中の「誰」と結婚をするのか?
すぐに答えは降りてきました。
相手は「ドーナツの穴」です。
過去記事より抜粋
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私が見つけた「私自身」は、「自己信頼」すらもこえた、「無でありすべてであり、私しかいない世界であり、そして私など存在しない世界」だった。
「ドーナツの穴」は、「無」だ。
そして穴がないとドーナツはドーナツとして成立しない。
つまり、ドーナツの「穴」は、「無でありすべてであり、私しか存在しない世界であり、私など存在しない世界」ともいえるのではないかと思う。
語られなくてやきもきしていた「ドーナツの穴」の「穴」は、「自分自身であり、存在しない自分自身」で、ようするに「無の自分自身」なんだ。
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「無の自分自身」「存在しない自我」との結婚です。
またもや禅問答、とんちのようになってきましたが、
それはつまり「存在しない自分自身(ハイヤーセルフ)」を受け入れる、ということ。
「自我は幻想である」と気付くということです。
ちょうどタイミングのいいことに、最近のマイブームは「自我殺し(自己壊滅)」です。
日常や対人関係でイラッとするような出来事が起こったとき「感情を感じ尽くしながら自我を手放して、状況や相手に身を委ねる」ということを意識的にチャレンジしています。
そのほうが、自分自身もラクだし、対人関係も人生もスムーズだし、何より人生の流れを信頼できるようになりました。
するとおもしろいことに絶妙なタイミングで、ミラクルな出来事が次々と起こるのです。
そして再び自我を手放してその流れにのっかって…というのを繰り返していくと、人生がおもしろく楽しい方向に勝手に進んでいくのを、最近よく体験しています。
まさか最初にふと思いついた「私はどうして浮気しそうな人を好きになるのか?」という疑問が、ここに着地するとは…。
「彼氏やパートナーに浮気されてばかりいて苦しい」という人は、どうやら「自分のドーナツの穴と結婚する」といいみたいですよ。
つまり、「自我を手放す」あるいは、「存在しない自我を受け入れる」ということです。
最初はなかなかに難儀ですが、チャレンジしていくと、だんだんラクにできるようになり、次第に長期的にみると、そのほうが自分にとって周りにとってお得なことに気づけると思います。
私は、これから「実験」をしていきたいと思います。
自分の「ドーナツの穴との結婚」をし続けることで、本当に「浮気しなさそうな人と出会い、その人を受け入れることができる」のか、「浮気しそうな人に魅力を感じなくなる」のか、という実験です。
実験結果をご報告できる日を楽しみにしています。
※実験結果報告
この1ヶ月後に現在のパートナーと知り合い、3週間で婚約、半年後に入籍しました^^
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