30才の時点で無職のティッシュ配りから、人生が好転したキッカケ

当時、テレクラのティッシュを配っていました

今日は、かなり久しぶりにwebメディア仕様ではない、自分の言葉でのブログを書いてみようと思う。

「人生が好転した」というのは、ある意味調子こきすぎのように思われてしまうかもしれないが、ワイの昔を振り返ると、どう考えても好転していると思うので、ここにその大きなキッカケを2点、綴る。

30歳の時点で無職になったワイ

今も忘れぬ、あの瞬間。。。

そう、あれはワイがちょうど30歳になった誕生日のあの日。当時バイトしていたカラオケ屋で「話があるので」とマネージャーに呼び出され、いきなりクビになったのである。。。

そもそも30歳でフリーターだった時点で、普通の感覚の人から見れば「どうかしている人間」であるのだが、そんなどうかしているワイでもいきなりのクビはショックだった。

クビになった理由は、当時キャッチとして働いていたのだが、店長が変わって店の営業方針が変わったためである。

今も忘れない。。クビになってカラオケ屋を出て、新宿区役所前の道をトボトボと歩きながら見た、あの夕焼けを。。。

当時住んでいた池袋に戻ると、ティッシュ配りをしているお兄ちゃんたちがいた。んで道端にティッシュの段ボール箱がいくつか置かれており、

「日給10,000円以上」

と派手に書かれた求人のポップが貼られていた。

すぐに電話して、30歳になった次の日から、ワイはティッシュ配りとしてデビューしたのである。

ねえねえ、なんで30歳になっても無職だったの?

ワイは氷河期世代であり、簡単にいうとこの時代は「フリーター」がいろんなメディアでもてはやされていた。

また、夢を追うことが一番の美徳のような価値観が、今より遥かに蔓延していたと思う。

普通に進学、就職してた人ももちろん多かったので、時代のせいにするつもりはないが、ワイも「ミュージシャンになりてぇ!!」という想いが炸裂し、21歳で上京。

だが気がつくと、ほぼほぼバイトばかりしている日々。そして恋愛でもしようものならそっちに夢中。

もちろん音楽活動も上京後すぐに初めてずっとやっていたが、芽が出ないままあっという間に10年近く経ってしまっていたのだ。

当時はどこのバイトに行っても、「ミュージシャン」「芸人」「役者」を目指してる奴だらけだった。ワイもその一人だったのだ。

就職するには、もう遅し

さすがの「どうかしている」ワイも、30になった時点ですっぱり音楽は諦めた。

今思えば、自分の本当の属性がよくわかっていなかったと思う。やるならやるで、もっとありのままでやれば良かったのではないかと後悔もあるが、それも含めて才能だろう。

近年、久しぶりに昔のボーカルと作ったMV ↓

うさぎの Magic 【MV】

スッパリと音楽をやめたワイは、人生の路頭に迷ったわけである。

そう。。。。もはや取り返しがつかないのだ。

就職したとしても、零細がやっとであろう。積み上げてきた学歴も資格もスキルもなんもない。

おまけにこの時期から急激にハゲてきて、外見的なコンプレックスも突然増大。

金も全くなく、アコムの借金が50マンくらいあった。

そして、こういう時期に限って好みの女性に出会ったりもしたが、人生においてメンタルが一番やばい状態だったので、うまくいくはずもなく、もはやどこにも心の拠り所がなくなったのである。

30歳で、ティッシュ配りデビュー

ティッシュ配りは、「新宿ソ○ト」という会社が営業しているテレクラや漫画喫茶のティッシュを、新宿、渋谷、池袋、上野、大宮。。。など、都内近郊のいろいろな場所で配る仕事だった。

日給10000円以上と聞くと良い給料のように思えるが、それは単純に労働時間が長いだけだった。なんと10時間配るのだ。(休憩は全部で1時間半)

長くなるので割愛するが、厳しすぎる管理体制の元、バイトは10人中1人残れば良い方だった。自衛隊出身のかなり根性あるやつが「自衛隊よりも厳しい」と言っていたくらいである。

「新宿ソフ○」は、今思えば一般人と犯罪者の境界線、社会の最後のセーフティネットの機能をもった場所だったと思う。

誰でもどんな人間でも、応募すればすぐに入れて結構高給。そのかわり異常に厳しく社員は週6の16時間労働。

ティッシュ以外にも「テレクラ、おっぱぶ」など、たくさん部署があった。

そして周りは、元ヤクザ、ムショから出てきたばっか、西から夜逃げしてきた、首までタトゥー入ってる、借金うんびゃくまん、言語がうまく喋れない、様子がおかしい、などなど、濃いメンツばかりであった。

人生が好転したキッカケ その①

そして、もっときついジョブもあった。

それは看板持ちの仕事で、漫画喫茶の看板を持って10時間立ちっぱなしなのである。

軍隊よりも厳しい会社なので、携帯を見たり、音楽を聴いたりはNG。座ることもNG。ひたすら立ち続けなければならなかった。

この、「立てる能力があれば誰でもできる仕事」は、上記の環境でやってみればわかるが超絶キツい。

「どれくらい時間経ったかな?」と、ふと時計を見てみると、なんと

「5分…」

しか、経っていないのである。

これを朝の10時から夜の8時まで10時間。ズーーっと同じ場所に立ち続けるのだ。

1秒1秒、1分1分、ずっと時間を堪能しながら、朝から夜まで一日中立ち続ける。

やった奴は

「普段あまり考えないんだけど、人生について、いろいろ考えちゃいましたよー」

とか、よく言うのだが、実はこれはまだまだ初心者なのである。

上級者になってくると、木の葉っぱをひたすら数えるとか、よくわからない状態になってくる。

ワイもよくは覚えていないのだが、途中から10時間があっという間に感じるようになってきた。足腰も異常に丈夫になったと思う。

どんな精神状態でこのジョブをこなしていたのかは、もはや記憶にない。

ただ、ふと隣を見ると、乞食のおっさんが同じ仕事をやっていて、本当に誰でもできる仕事である。

しかし、長く続けるという意味では、かなり難易度の高い仕事だったのではないかとも思う。

結局ワイは、この職場に1年半ほどいた。

そして、言語化するのは難しいが、この一年半で何かがスッキリして、根っこの部分からクリアになった気がするのだ。

スキンヘッドにしたのも、この頃である。

ハゲ漫画を描き始める

何かがスッキリ、クリアになったワイは、幼少期から絵心がちょこっとあったので、漫画を描くことにした。

とは言っても、素人に少し毛が生えたくらいで、プロレベルとは程遠い。人物の横顔さえロクに描けないレベルであった。

んでハードルを落として、当時流行りはじめていた、ブログでの絵日記4コマを描くことにしたのだ。2007年の12月ごろだ。

あくまで絵の練習用のつもりだったので、ペンネームも適当で当時流行っていたミヒマルGTにかけて「ハゲマルGT」。内容もハゲ絵日記だった。

そして5話ほど描いた頃だろうか。

今思えば、かなり幸運だったと思うのだが、当時Yahooカテゴリーというのがあって、試しに申し込んでみたら、そこにサイトを登録してもらえて、マイヤフーというのにピックアップして貰えて、人生初バズりを体験したのである。

それは2008年の1月であった。最初は、アクセス解析がぶっ壊れたのかと思った。何万人ものPVがあって、それから数日後、なんと主婦の友社から書籍化の連絡が来たのである。

絵日記を開始して、たった1ヶ月、しかも5話しかupしていない状態でだ。

結末を言うと、結局、書籍化には至らなかったのだが、これを機にモチベーションが上がって、ちょこちょこ漫画を描けるようになり、ファンだと言ってくれる方も増えてきた。

そして、他の出版社から連絡が増えて、人生初のイラストの仕事、漫画の仕事が舞い込み、「みこすり半劇場」で、雑誌デビューもできたのである。

いつの間にか、20代で完全に失われたアイデンティティーを取り戻したような状態になった。

「何者かになれた」

という感じだったのだろう。

この時点で、かなり人生は好転しているとは思うのだが、内面的にはまだまだ不安定な感じだった。

ブログでは一定の人気にはなったものの、結局その後、数社から話が来ても書籍化には至らず、漫画の仕事は増えたものの、食えるほどでもなく、他のブロガーさんが次々と書籍化されていくのに、なぜか最速で話が来たワイだけ、いつまで経っても書籍化できなかったのだ。。。。

人生が好転したキッカケ その②

結局、書籍化に至ったのは、最初に話をいただいた2008年から4年後の、2012年であった。

この4年で、また結構腐っていたと思う。

漫画の仕事ができてる時点で、土台としては以前よりはずっと幸せだったのだが、当時仲良くしていた絵日記ブロガーさんたちの中で、ワイだけ書籍化できない現象に、何やら運命的な理不尽さというか、人生の摩訶不思議を感じざるを得なかった。

なぜなら明らかに上手くなくて、ブログランキングがワイより低い人でも、何人も書籍化していたからだ。

これはもはや、人間性の問題なのかな?と思った。

つまり、この世界においても真っ当なちゃんとした人じゃないとダメで、ワイのようなひねた落ちこぼれは、上手くいかないのかな?とかなり疑ってしまっていたのだ。

出版社に勤めてる人たちは、ワイからみたら超絶エリートである。みんなそれなりの良い大学を出て、いわばレールを真っ当に歩んだちゃんとした人たちなのだ。

実際に、いろんな出版社の何人もの編集さんたちと会ったけど、いざ会ってみると波長が合わないというか、むしろ内心軽蔑されているようなオーラを感じることも多かった。

今振り返っても、実際に野良犬のように見ていた人もいたと思う。んでそういう人と仕事が続くことはやっぱりなかった。波長が合うな〜と思った方は、ほんの数人であった。

そういう状況に、また腐りはじめていたのである。

んで、よくやくこの記事の本題に入るが、忘れもしない2011年の冬ごろ、部屋で1人悩みまくっていた。

「なぜ、前進できないのか? 何が足りないのか?」

「あれだけ流れや人にも恵まれ、条件も全て揃ったのに、なぜ本当に欲しいもの(書籍化)だけが、いつまでも実現しないのか?」

「いったい何がワイに足りないってんだ??」

考えに行き詰まったワイは、外に出て近所のセブンイレブンに行った。ファミリーマートだったかもしれない。

そして書籍コーナーに行くと、小さなPHP書の怪しそうな自己啓発本があった。

なんとなく手にしてみると、当時、情報商材系で成功したというロン毛のいかにも怪しそうな兄ちゃんが書いた本で、「引き寄せの法則」の本で500円くらいだった。

変なプライドもあったので、いつもだったら絶対に買わないのだが、この時は行き詰まっていたので購入してみた。

んで読んでみると、その兄ちゃんが書いた本というより、アメリカ人のウォレスワトルズという、引き寄せの元祖らしき人が書いた本を、いろいろ引用しているような本だった。

つまり、正確にはそのアメリカ人の本ではなく、その人の権威に乗っかって書かれた怪しい情報商材屋が出した本を、まんまと買ってしまった形である。

そしてその本には

「感謝の念を、原子に送るのが大事」

みたいなことが、書かれていた。

原子ひとつひとつくらいの小さな存在にも、全て知性が備わっており、それは宇宙全体に広がっている。つまり、ミクロからマクロまで、感謝の念を宇宙に放出することが大事なのだと。

その兄ちゃん自体は、今振り返っても怪しいとは思うが、実際に大金を稼いでいるし、言葉自体はワトルズのものである。

そして、今までの人生において、下手すりゃ一度たりとも「感謝」の念を何かに放出したことはなかったかも、と思った。

ワイに足りなかったのはこれや!!と思い、その日から無理矢理にでも毎日感謝の念を、何かしらに送るように努めたのだ。

すると、たった2ヶ月後くらいに、なんとメディアファクトリー(現kadokawa)の編集さんから突然連絡が来て、その担当さんもかなり波長が会う方で、とんとん拍子に書籍化が決まったのである。

結局、これまでに話をもらった出版社の中では、一番条件もよく、編集さんや販売さんも情熱ある人たちの中で、「書籍化って、きっとこんな感じだよね!」と思い描いていたイメージ通りの進行で、本を出していただけることとなったのだ。

んで、それから今に至るまで、ずーっと好調が続いている気がする。

結婚もできたし、超零細会社とはいえ今は法人の代表だ。毎日やることは多いが、自分の都合でスケジュール調整ができるので、時間的にもかなり自由だ。

もちろん一般人レベルの好調なので、大富豪になったとか、大スターになったとかのとんでもない話ではないのだが、市井の人としては十分だろう。

結論としては、ワイの人生が好転した一番大きなきっかけは、怪しい情報商材屋の兄ちゃんが出した怪しげな「引き寄せの法則」の本だった。

もちろんこの本は、おすすめはしない。

ただ、届くきっかけは何だって良いのだ。

終わり。

 

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