入籍前、実家のダイニングで婚姻届の未記入欄を書いていたら母に「次に会うときは新井さんになってるんだね〜。今度から新井さんて呼びますね」と言われた。
自分で「桜奈」という名前をつけたくせに、私が母から「桜奈」と呼ばれたのは、人生で一度しかない。
父親からはゼロ。
これは一体なんなんだろうと、いまさら思ったのだった。
友だちや知人からは、「桜奈」とか「桜奈ちゃん」とか「桜奈さん」とか「さくちゃん」とか「桜」とか、名前で認知されているのに、家庭内では「おねえ」や「おねえちゃん」だし、弟が生まれる4歳までは英才教育をしたがった母からなぜか「チェリー」という愛称をつけられ、祖父母からも親戚からもそう呼ばれていた。
おかげで、私はけっこう長いあいだ自分の名前を「チェリー」だと勘違いしていた。
私は丸山家では、ずっと「桜奈」ではなかったのである。
生まれたときから家庭内にアイデンティティがなかったのだ。
これは、改めて考えてみると、なかなかにすごいことだなと思う。
よく生きのびてきたよね、と我ながら感心する。
コーザル体が強くなかったら、早いうちに死んでいたかもしれない。
どういうわけだけか、私は物心がついたときから「魂の自分」を信頼することができた。
それを指針に生きてきた。
だから、アイデンティティがなくても、生きていられたといえる。
それは、ある意味とてもラッキーなことでもあり、不幸なことでもあった。
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両親が私のことを「桜奈」と呼ぶときは、対社会において私について何かを説明しなければならないときだけだ。
たとえば「この度、桜奈が結婚することになりまして……」みたいな感じで、社会に対する記号でしかない。
でも一周まわってそれ(名前は記号でしかない)が真理だと私も思うからいいのだけど、うちの親も変わったことをしたなと思う。
「親に自分の名前を呼ばれたことがない」という人は、じつはけっこういるという話を、誰かとしたことがある。
そういう人はやっぱり実存としてのアイデンティティがうすいしブレやすい。
とくに「おにいちゃん」「おねえちゃん」と呼ばれやすい長子は多いのかもしれない。
中には恋人やパートナーからも「名前で呼ばれたことがない」という人もいる。
いつの頃からか、私も友人知人から下の名前で呼ばれるようになってから、やっと「桜奈は私である」「私は私である」という認識がつよくなった。
そういう意味では、私のアイデンティテイが確立したのは、比較的おそいほうだったかもしれない。
最近、「名前は記号でしかない」と思うようになってから、なんと呼んでもらってもかまわないんだのだけど、平凡ではない名前をつけられた身としては、そこまでいくのに、いろいろなストーリーを体験した。
それと同時に、「桜奈」という名前をとても気に入ってもいる。
先日、「キラキラネームブーム終焉」みたいなネットニュースを見た。
人ごとではないと感じたし、キラキラネームをつけられた人たちのこれからの人生を思った。
キラキラネームを命名された人たちは、きっといろんなストーリーを体験して、そして名前は記号でしかないことに気づき、そこから解放される」というプロセスを踏む運命にあるのではないだろか。
キラキラネームの人は、多かれ少なかれ「特別さ」にまつわる人生テーマを持っていると私は考えている。
キラキラネームの子どもたちが大人になり、社会に出たときが楽しみである。
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