いきなり妙な記事をまた書き始めましたが、最近というかここ数年かもしれませんが、常々思うのです。
一番誤解されていると思うのが、スピリチュアル的な体験であるとか、非物質世界とつながったとか、霊的体験であったり、宗教的な修行もそうかも知れませんが、それらにいくら努めたとしても、魂の質の向上とは全く関係がない。
そうした体験や知識が一切なく、日々の暮らしや人間関係を善く努めている人のほうが、よほど魂が磨かれている場合も多いと思います。
自分は前述した不思議体験は結構ある方だと思いますが、それらは「そういう世界が確かにあるんだな」という確信が増す程度のことで、しばらく経てば薄まって忘れてしまうし、いくら能力があったとしても、たいしたアイデンティティでも自慢できることでもなんでもないことだと思います。
なぜ急にこんな事を言いだしたのか?
なぜだかよくわからないですが、ここ最近まったくそういう現象から遠ざかっているからです。
そっち系の過去記事を自分で読んでも、今は絶対に書けないくらい、そっち系では愚鈍になっています。その分、そっち系に関しては十分な休養が取れていると思うので、またそっちの方に隙あらば意識が向いていくかもしれません。
ただ、前回の最後の体験で、この時点ではもう頭打ちというか、そっちに行っても意味がないということが無意識下でわかったのかもしれません。
日常世界で学ぶべきことがまだまだ沢山あるのだと思います。
最近鬼のように忙しい
今年の夏くらいから、ずっと忙しい日々を送っています。
何かをゆっくり考えたり感じたりする暇が全然ありません。以前はこういう忙しい状態を良しとしませんでした。忙しくなって日常をせわしなく生きれば生きるほど、感性といいますか、何か大事なアンテナが鈍ると考えていたからです。
それは事実そうであるし、せわしない日々を送り続けて疲れきってしまっている人は、思い切ってそれを辞めてしまうというのは非常に大事なことと思います。
むしろ、「忙しさを辞める」ことが必要な人のほうが圧倒的に多いと思います。特にジャパニーズはシステム的に明らかに「働きすぎ」なので、民族的にもっと休むべきかと思います。
俺も可能であれば無限に休みたいです。
ただ、最近は以前と違って、忙しくても疲労がそんなにないのです。なので、最近の「忙しさ」は悪い忙しさではなさそうだと思って、まぁ良しとしております。
でも、可能であれば休みたいです。
そろそろまたそっち系に意識をやっぱり向けたい
行ったり来たりしているのですが、前回からもう半年以上経っているので、こっちの世界で少しは修行ができたかもしれません。なので、確認の意味も含めてまた意識をそっちに向けたいですね。
何が言いたかったかというと、そっち系の体験は結局「単なる確認」なんだなということです。
能力がある人でも、必ずしも魂の質が良いわけではないのは、そういうことです。
基本は単なる確認行為でしかないので、それに溺れたり依存してしまってはいけません。
ただ、そっち系で良いことは、探究心であったりしっかりした信仰であったり、自己客観性であったり、運気に敏感になったり、精神が安定したり、日常がより過ごしやすくなる効能は大いにあると思います。
ただ魂の成長自体は、その日常の中でしか育まれないのだなと、腑に落ちる毎日です。
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