宦官とは
古代中国の歴史を語る上で 宦官 (かんがん)は欠かせない存在である。
宦官に付いて一言で解説すると、宮中で働く「去勢された官僚」を示す言葉であり、彼らは去勢を施されて宮中の女性と関係を持てないようにされていた。
明~清朝においては宦官という言い方ではなく「太監」と呼称されるようになった。
貧しい家柄の両親が子供を去勢して、宮廷に奉公に出すというケースが多かったという。
しかし男性器を切り取った際に出血が止まらず、命を落とす者もいた。そして多くの者はあまりの痛みに耐えきれず、失神してしまったという。
医療が発達していなかった時代において、宦官になることは命懸けの行為だったのである。
明清以前は生殖機能についての知識が不足していたため、全ての部分を切除していた。そうなると尿を足すことについての問題が起こる。
施術後、しばらくは尿意を感じることができず、尿意を制御することができない。そこで尿道に鳥の羽根を差し込んでそこから用を足せるようにしたという。鳥の羽根の空洞な部分を利用したのである。
その後は麦の茎を差し込んで尿道を作った。話を聞くだけでも何とも痛々しい。
明清以降は生殖器についての研究が進み「睾丸のみを摘出する」という方法に変わった。
明清以降の宦官たちは尿についての問題はなく、一般の男性と同じように排泄が行えたのだ。
宦官の役職
宦官にも色々な役職の者がいた。
皇帝お付きの宦官には大きな権威が与えられ、皇帝に取り込み寵愛を得たい女性たちは様々な手を使って、彼らの機嫌を取ろうとした。
中には政治に関与し始める者もいて、特別な権力が与えられた。
とはいえ宦官は宮中では数多く、出世出来る者は一握り中の一握りである。その「一握り」になるため、宮中では宦官による激しい出世争いが繰り広げられていた。
権力を掌握し国を腐敗させた悪名高き宦官としては、秦の趙高、前漢の石顕、後漢の十常侍、などが有名である。
今回は同じ悪名が高い宦官の中でも、最も悲惨な死に方をした明の劉瑾(りゅうきん)について解説しよう。
劉瑾という宦官
劉瑾(りゅうきん)は「最も悲惨な最後を迎えた宦官」と言われている。
劉瑾は、1451年から1510年まで生きた明代の宦官で、明の10代皇帝・弘治帝の時代に後の武宗皇帝(正徳帝)になる太子に仕えていた。
太子は正徳帝として即位後、チベット仏教に傾倒し、「豹房」と呼ばれる建築物を宮中に設置して美女を集め、歌舞音曲を演奏し、耽色した生活を送っていた。
父の弘治帝は明朝の国勢を立て直し、「明の中興の祖」と評されるほどの賢帝であったが、正徳帝は国勢を再び衰退させ、明朝滅亡の要因を作り出したとも言われている。
そんな正徳帝に逸楽を勧めて遊蕩に溺れさせ、政治の実権を握ったのが宦官の劉瑾だった。劉瑾は正徳帝の幼少の頃からの遊び仲間でもあった。
劉瑾の権力はどんどん大きくなっていった。皇帝の次の地位とも囁かれ、誰も彼に逆らうことができなくなった。
劉瑾は同僚の宦官七人と共に国政を壟断し、「八虎」と称され、汚職と収賄によって国政を腐敗させた。また、東廠や西廠などの諜報機関を利用して反対勢力を監視・弾圧した。
そして賄賂政治で巨額の財を蓄え、最終的には皇位簒奪まで企てたのである。
当然劉瑾の専横に対する反発は大きく、ついに八虎の一人で敵対勢力の宦官だった張永から告発され、受け取っていた賄賂や不正の証拠を掴まれてしまった。
そして劉瑾は「聖上を晦まし、国政を壟断した」という罪状で、とても酷い酷刑を受けることとなる。
凌遅刑(りょうちけい)
この刑は、罪人に少しずつ痛みを与えてじわじわと命を奪う、非常に残酷な刑罰の一つである。
簡単にいうと、肉を少しずつ削りとって痛みを与える。
まず1刀目は太ももの肉を切り取り、2刀目は目隠しをして頭の皮をはぎ、皮を引き剥がして引っ張り下ろし目を塞ぐ。そして見えないようにして刑の執行を進めるという身の毛もよだつ工程だ。
劉瑾の処刑については、張文麟という担当刑務官の詳細な記録が残っている。
劉瑾は第1日目、357箇所の肉を削がれた。その後、牢屋に収監されたが、なんとまだしっかりしており、お腹が空いたというので粥を2杯食べたという。
そして第2日目、合計で700箇所以上もの肉を削がれ、ついに気絶した。
この刑は「息を引き取るまでに3000箇所に刀を入れなければならない」という規定になっている。劉瑾は何と3357箇所もの刀を入れられ、ついに息絶えた。
劉瑾は「史上最も多く刀を入れられ息絶えた者」として記録に残っている。しかもその間に食事までとっているのである。
刑執行後の劉瑾の肉は販売された。怨みを持った人たちはそれを買い求め、ある者はそのまま噛みちぎり憎しみを表したという。
最後に
中国の歴史の中で最後に凌遅刑を執行されたのは、清末期に世間を賑わせた悪党として知られる康小八という人物とされている。
なかなかの人物で、刑の執行中も全く声を上げなかったという。あまりの強情ぶりに、最後には執行官が心臓を突き刺して、息絶えさせた。
こうして彼が、中国のこの残酷な刑罰の歴史に終止符を打った。
この刑はその後は執行されず、代わって「斬首刑」が執行されることとなった。
宦官という数奇な運命を辿った人たち。その歴史は代々の皇帝たちと共に眠っている。
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