応仁元年1月に細川勝元陣営の畠山政長と山名宗全陣営の畠山義就の両軍が京都の上御霊(かみごりょう)神社で激突し、応仁の乱は幕を開けた。この戦いが日本史のターニングポイントだったのは確かである。これまでの通説によると、応仁の乱が勃発した…
両軍合わせて27万もの軍勢を動員し、11年にも及んだ「応仁の乱」。どの勢力が戦い、勝者は誰だった…
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2代目が優秀なら武家政権は安定する武家が政治の表舞台に立った政権としては、平安末期の平氏…
紀元前3世紀の地中海地域では、北アフリカを拠点とする海洋国家「カルタゴ」と、イタリア半島に勃興した「…
日本史において、3世紀中頃から7世紀頃にかけての時代は「古墳時代」と呼ばれる。倭国が…
唐辛子売り江戸の町では蕎麦が流行しており、江戸時代後期には3000軒以上の蕎麦屋があった…
桜田門外の変の二番煎じ「坂下門外の変」(さかしたもんがいのへん)は江戸城の坂下門外におい…
1858年1月30日、一隻の船が水の上に浮かんだ。船の名は「グレート・イースタン」。当時世界…
「賽は投げられた」(alea iacta est)、「来た、見た、勝った」(veni, vidi, …
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