楼蘭の美女とは
楼蘭の美女(ろうらんのびじょ)とは、1980年に中国の最短の新疆ウイグル自治区で出土した女性のミイラである。
中国で最も古く、最も保存状態の良いとされている
その容姿は目は大きく彫りが深く、鼻は高く顎は尖り長い睫毛を持ち、深い褐色の髪を肩まで伸ばしていた。ヨーロッパ人の特徴を持つという。
およそ3800年の歴史を持ち、亡くなった年齢は40歳前後、生前の身長は155.8センチほどと推定される。
ミイラ化してからは身長は152センチほどに縮み、体重は約10.7キロ、血液型はO型であったという。
楼蘭(ろうらん)とは古代中国西部の小さな国で、西部にあった36の国のうちの一つである。
楼蘭がいつ、どのようにして成立したのかは定かではなく、考古学的には新石器時代から居住が始まったことが確認されている。
中国史の蓁の初年には楼蘭はすでに建国されており、砂漠の中の「さまよえる湖」として知られたロプノール湖(現在の中国・新疆ウイグル自治区)一帯を治めていた。後漢時代には、シルクロードの重要な場所として栄えた。
しかし楼蘭はシルクロードの拠点として栄えた500年後、突如として姿を消した。およそ1600年前のことである。
1899年から1901年、スウェーデンの探検家ヘディンがロノプール荒野を調査し、1000年以上眠っていたその都市が再び姿を現した。
1980年、NHK特集 シルクロード第5回「楼蘭王国を掘る」で発掘の模様が紹介され、「楼蘭の美女」は世間に知られることとなった。
実は楼蘭の美女と楼蘭という国に関係があるかは定かではない。なぜなら彼女が生きていたとされる年代は今から3800年以上前であり、楼蘭国についての最も古い史料は紀元前2世紀頃であるからだ。
なぜこのように名づけられたかというと、その地が楼蘭と関係性が深かったからである。
楼蘭の美女の容姿
絶世の美女の顔の一部は羊の皮で覆われており、その上にはソクズの茎とガマの葉を折り合わせたいわゆる竹籠のような物で覆われていた。
上半身は荒い毛で作られた布を着ており、胸の前の尖った小枝で左右が止められていた。下半身は加工された羊の皮、頭には毛で織られた帽子を被っていた。帽子には2本の雁の羽根が差し込んであり、皮靴を履き靴底は羊毛で縫い込まれていた。靴下は穿いていなかった。
その墓の中の装飾は簡素なもので、必要最低限のものしかなかった。頭部には植物の茎で編まれた小さな袋があり、腕の部分には木製の櫛が置かれていた。
楼蘭の美女の保存状態が驚くほど良かった訳
研究に最初に携わった専門家は、楼蘭の美女は以下の条件から自然にできたミイラだと推測している。
1:乾燥していて熱風が吹く地帯であるため、体が腐敗する前に身体中の水分が乾くので、皮膚の酸化が防げる。
2:墓のあった場所が地面から7~8メートルの高さにあったので、水が来る心配がない。
3:墓の深さは約1メートル、からだの上には砂土がかかり、イネ科のヨシなどの茎や枝が覆いかぶさっていた。通気性も確保され余分な水分が蒸発できる。
4:死亡した時期は冬で寒さが非常に厳しい頃であった。極寒の地帯では細菌の活動が制限される。
ところが、研究の結果とても意外な事が判明した。
楼蘭の美女の体にはある物質が塗ってあったという。その物質は非常に薄く塗ってあったことと、3800年の時が経っていたことで発見されるのが遅れたという。
科学者の見解によると、それは「動物性蛋白質」ではないかと推測され、それによって長い間死体を保存する事ができたという。
長い間、楼蘭の美女は自然が作り出したミイラで、エジプトのミイラとは違う性質を持つと考えられてきた。それが人為的に作られたものであるとするならば大きな発見となる。
新疆は他民族、多文化の融合した土地であり、独自の自然と地理条件をもつ。
中国の「楼蘭の美女」とエジプトのミイラは同じ要素を持っている可能性がある。
場所は離れていたとしても類似した文化をもっていた。これははたして偶然なのだろうか?
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