
画像:吉野花見図(重要文化財)左隻部分 public domain
日本屈指の桜の名所として名高い奈良の吉野山。
シロヤマザクラを中心とする吉野山の桜は、古くから植え継がれ、平安時代にはすでに桜の名所として知られていた。
春には山一帯を覆うように咲くその見事な景観は、「吉野千本桜」とも称される。
古くは天武天皇や源義経、後醍醐天皇など数々の偉人や文化人と縁のある吉野山だが、太閤豊臣秀吉もその1人に数えられる。
在りし日の秀吉は、かつての主君であった織田信長に代わって天下統一を成し遂げたのち、1594年4月中旬頃に吉野山へ入り、5日間にわたる大規模な花見の宴を催した。
徳川家康や伊達政宗、前田利家など諸大名や公家、連歌師や茶人など約5000名の人々が動員された一大行事は「吉野の花見」と呼ばれ、天下人に成り上がった秀吉の威光を世に知らしめたのだ。
今回は、古来桜の名所として知られた吉野山を舞台に、秀吉が催した大行事「吉野の花見」に触れていきたい。
太閤秀吉の権威を示すために開催された吉野の花見

画像:花矢倉展望台からの眺望 wiki cc Draupnir3
1586年に太政大臣に就任した秀吉は、日本各地を支配下に収め、1年以上に渡って続いた朝鮮侵攻が明との講和交渉という形で一段落した後、1594年に「吉野の花見」を開催した。
この頃、天下人として栄華を極めていた秀吉だが、3年前の1591年には自身の参謀役として活躍した弟・豊臣秀長と、淀殿との間に生まれた待望の男児・鶴松を相次いで亡くしている。
特に2歳になったばかりで病死した鶴松の死に秀吉は大いに気を落とし、武士の魂ともいえる髷を落として喪に服したという。
しかし鶴松の死から2年後の1593年8月、淀殿が新たな男児・秀頼を生み、秀吉は57歳にして再び跡継ぎに恵まれた。
鶴松の死後、秀吉は関白の座こそ後継者として指名した甥の秀次に譲っていたが、太政大臣の座は譲っておらず、政治の実権は手放していなかった。

画像:吉野水分神社 本殿 wiki cc Naokijp
秀吉が、奇跡的に生まれた実子の秀頼にいずれは跡を継がせたいと思い直すのも無理はない。
そのためには秀次に関白職を任せたとはいえ、まだ自分に実権があることを誇示しておきたい。一説にはそういった思惑があり、秀吉は「吉野の花見」の開催したのではないかと考えられている。
または自分に臣従する諸大名に対する労いと統制を図る意図や、秀吉の力によって乱世が終わり、天下泰平の世が訪れたと世間に印象付ける意味もあったとされる。
吉野山が会場として選ばれた理由にも諸説あるが、吉野山が古来より桜の名所としてよく知られていたこと、多くの名歌に詠まれ、南朝の皇居が置かれる天皇家と所縁が深く、歴史的、文化的にも価値がある場所だったこと、花見という華やかな行事が派手好きの秀吉の好みに合っていたことなどが考えられる。
ちなみに吉野山の上千本に鎮座する𠮷野水分神社には、秀吉が子授け祈願して秀頼を授かったという伝承があり、秀吉亡き後に秀頼が再建した本殿など社殿6棟が重要文化財に指定されている。
止まない雨に憤慨し僧侶を脅した秀吉

画像:吉水神社の日本庭園 photoAC
1594年、秀吉は供の者たちを引き連れ意気揚々と吉野山入りし、花見のために自ら庭園まで設計したが、その始まりは順調ではなかった。
秀吉とその一行は、当時金峯山寺の僧房とされていた吉水院(現在の𠮷水神社)に本陣を置いたが、入山初日はあいにくの雨だった。そしてこの雨はその後3日間に渡って降り続いたという。
せっかくの桜も、降りしきる雨の中ではろくに楽しめない。
秀吉は酒と肉などの肴を下賜し、吉水院の中で歌会や酒宴をして過ごしていたが、次第に苛立ちが募っていった。
まだ雨が降り続けていた3日目の夕刻、秀吉は同行していた懇意の僧侶、京都聖護院門跡・道澄を呼び出して、どうして雨が止まないのかを問うた。
道澄は秀吉の質問に対して、吉野山では肉食が禁じられているため、秀吉たちが肉食をして吉野山の神仏の禁を犯しているからではないかと答えた。
この答えに対して秀吉は「ならばすぐに肉食を止める。それでも雨が止まなければ吉野山の寺社に火を放って即刻下山する」と言い放ったという。
真っ青になった道澄は、すぐさま吉野全山の僧侶に対して夜通し読経と晴天祈願をすることを命じた。
道澄があまりに焦っていたため、その様を見た秀吉は半ば冗談であったのにと大笑いしたという。
願い通じて晴天の下で開催された花見の宴

画像:吉野山・一目千本 photoAC
僧侶たちが必死の祈りを捧げた甲斐もあってか、秀吉が吉野入りして5日目にようやく雨が上がり、晴れ渡った空の下で吉野の千本桜も満開となった。
現在でも、吉水神社境内からは「一目千本」と讃えられる中千本と上千本の山桜が密集して咲く光景を一望できるが、約400年前のその日も秀吉の目の前に、山一面に満開の桜が咲く光景が広がった。
秀吉は前日の怒りも忘れて感嘆し、吉野山を守護する神仏の霊験に恐れ入ったという。
いざ本格的な花見が始まったが、派手好みの秀吉がこの一大行事をただ桜を愛でる宴会で済ませるわけがなかった。
花見に同伴した家康らによって吉野山には茶屋が建てられ、さらに大名や公家はそれぞれ商人や道化、巫女や山伏の仮装をし、参加者は身分に関係なく能や歌会、茶会や酒宴を満喫しつつ、満開の桜の山を楽しんだと伝わっている。
大峯山の山伏に扮した伊達政宗一行

画像:桜開花時期の金峯山寺。 wiki cc Draupnir3
吉野の花見に参加した伊達政宗の、晩年に小姓を務めた木村宇右衛門が書き記した『村宇右衛門覚書』に、政宗が語った吉野の花見での出来事が記録されている。
小田原征伐を機に秀吉に臣従した伊達政宗は、家臣たちと共に吉野山地の修験道場・大峯山の山伏に仮装して、吉野の花見に参加した。
政宗一行が茶屋の前を通りかかると、仮装した秀吉が茶屋の主人になり切って声をかけてきた。
茶屋の席で休んでいたのは巻物売りなどに扮した前田利家や徳川家康、秀次の義父である今出川晴季など錚々たる面子だった。
政宗は秀吉の芝居に乗って、山を歩いて疲れたので茶よりも酒をくれと返し、家臣に法螺貝を吹き鳴らさせてから「布施を所望する!」と高らかに告げた。
酒を所望し布施を強要する似非山伏になり切った政宗の芝居に、秀吉と居合わせた諸大名は不謹慎にも大爆笑。
秀吉はこの政宗の芝居をいたく気に入って、政宗の扮装を自分と同じぐらい見事だったと褒め称えたという。
人の栄華が滅んでも毎年咲き続ける吉野山の桜

画像:吉野山の桜 photoAC
「吉野の花見」が行われた翌年、秀次に謀反の疑いがかけられた。
秀次は秀吉の命により切腹させられ、さらには周囲からの助命嘆願も空しく、秀次の妻であった今出川晴季の娘を含む一族や縁故の人物は女子供まで皆処刑された。
秀次と懇意にしていた伊達政宗は、自らにも謀反の疑いがかけられることを案じてすぐに京都に赴き、必死の自己弁護をして許されたが、秀頼に忠誠を誓い、伏見城下に妻子や家老に加え1000名もの家来を常駐させるよう命じられている。
1598年に秀吉が死去すると、やがて政権は関ヶ原の戦いで豊臣方を破った家康の手に落ちた。
秀吉が死の間際まで案じていた秀頼も、大坂夏の陣で淀殿とともに自刃し、すでに秀次切腹事件で多くの親族を失っていた豊臣家は滅亡へと向かった。
秀吉の才覚によって雨後の桜のように花開いた豊臣家の栄華は、まるで満開を終えた桜のように瞬く間に散ってしまった。
桜は儚いからこそ美しいが、人の栄華もまた儚いものだ。
1000年以上もの時を越えて咲く吉野山の桜は、さまざまな歴史を内包しつつこれからも見事に咲き続けるだろう。
参考文献
小和田哲男 (著) 『<伊達政宗と戦国時代>秀吉も舌をまく豪胆さ』『𠮷水神社公式HP』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部

























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