(出典:Wikipedia)
「幕末薩摩藩」といえば、西郷隆盛、大久保利通などがすぐに思い浮かぶと思います。
そんな彼らをまとめあげ幕末政治史をリードした薩摩藩家老がいました。
西郷・大久保の活躍に埋もれている印象ですが、島津久光に次いで小松こそが幕末薩摩藩の実質的なリーダーでした。
NHK大河ドラマ「篤姫」でも注目された『小松帯刀』について調べてみました。
小松帯刀の出自
薩摩藩は島津家一門(本家・重富家・加治木家・垂水家・今和泉家)があり、家臣団の最上位は「一所持」といわれ、一門・一所持が家老を務められる身分でした。
小松は一所持である肝付家の生まれです。
肝付主殿の三男で「肝付尚五郎」といいました。
安政3年に一所持の小松家へ養子に入ります。
薩摩藩家老への道
安政2年(1855)正月15日に奥小姓・近習番勤に任じられています。
さらに同年5月には江戸詰を命じられます。
小松家の養子になるために帰国を命じられ、江戸滞在は2か月ほど。
安政3年(1856)に小松家へ養子に入り、詰衆を命じられます。
安政5年(1858)に薩摩藩主島津斉彬が亡くなり、その葬式で小松は定火消役として参列しています。
小松は島津久光や誠忠組(大久保一蔵など)と交流し、文久元年(1861)5月に側役(藩主の側近)に抜擢されます。
さらに、10月には薩摩藩内で大幅な人事改革が行われて、国父・島津久光を中心とする体制が整います。
小松は島津久光体制の中心人物となり、文久2年(1862)3月の久光の率兵上京を準備しました。
この年の暮れには家老を命じられています。
小松帯刀の応接
文久3年(1863)3月、越前藩が薩摩藩に対して「一緒に上京して周旋活動をしよう」と提案してきました。
この時期は、長州藩を中心とした過激派が京都にて大きな力を持っていました。
越前藩からは三岡八郎(由利公正)らが使者として派遣されましたが、このときの小松の迅速な応接に驚いています。
また、越前藩を通じてこのことを知った勝海舟は日記で「薩摩藩の執政である小松帯刀は英俊の士であり、薩摩藩の国政はこの人の意匠で決まる。小松がおおいに同意したために島津久光の上京がすぐに決まったのである」(現代語訳)と記しています。
文久3年7月、薩摩藩とイギリスの間で戦争が起こります(薩英戦争)。
結果は、お互いに甚大な被害を出しました。
しかし、薩摩藩内ではイギリス軍艦を退去させたことから戦勝気分になっている者たちもいました。
そんな状況のなかで小松は、薩摩藩首脳部で最初にイギリスとの講和を言い出したといわれています。
そのあと薩摩藩とイギリスの関係は緊密になっていくので、このときの小松の提案は重みをもったことでしょう。
薩英戦争の教訓を得て、小松は長崎で武器購入の交渉を開始しています。
小松帯刀の京都周旋
文久3年9月、「八月十八日の政変」で長州藩勢力がいなくなった京都に小松は入ります。
公家と接触して、孝明天皇の意志を探っています。
このとき、薩摩藩は諸侯も政治参加を行うべきであることを主張し、「国是」を定めることや、横浜鎖港問題や長州藩処分問題などの解決を目指していました。
その結果、一橋慶喜・松平容保・松平慶永・伊達宗城・山内豊信・島津久光が参与に任命されて、「参与会議」が誕生しました。
小松は久光からの信頼のもとで朝廷や諸侯の間を周旋していました。
しかし、「参与会議」は慶喜と久光の不和などから、結局は瓦解してしまいます。
元治元年(1864)5月ごろから、前年に京都を追われた長州藩勢が京都に攻め上ってくるとの噂が広がりはじめました。
そんななかで小松ら薩摩藩は朝廷の守護のみに気持ちをひとつにする方針でした。
6月後半には長州藩兵が京都に集まり、退去勧告にもかかわらず駐留を続けました。
朝廷の中にも長州藩に宥和的な者が多く、ぐらついていましたが、ここで薩摩藩は長州追討の勅命(天皇の命令)を獲得するために積極的に動きます。
そしてついに長州藩が攻め上ってきました(禁門の変)。
戦闘が繰り広げられるなか、小松が一橋慶喜の参内に同行していました。
「禁門の変」のあと、小松は慶喜に長州征討を進言しています。
第一次長州出兵に際して、小松も事態収拾のために周旋を行ないました。次のページへ
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はじめまして、
私は、今に伝わる幕末について、強い不信感を持っています。
幕末を語ったのは明治政府です。
明治政府初代総理大臣伊藤博文のもとで語られています。
初代宮内大臣田中光顕によって、桂の手紙に浪人の龍馬が裏書したものを「薩長同盟」の証
として宮内庁に収めています。
この中に登場しているのは、桂と龍馬です。 薩摩藩・長州藩の公文書ではありません。
ここに、幕末の不思議さが残されています。
幕末は薩摩藩久光公のもと、家老小松帯刀によって、
長州藩に手を差し伸べたというのが真実ではないでしょうか?
幕末のおかしさは、語った側にあると私は考えています。
是非、歴史をお仕事にされてる方々に、深く、深く、お調べいただきたいと願っています。