戦国時代最強の武将とも謳われる武田信玄は、多くの忠臣に恵まれた人物だ。
恵まれたというよりは、信玄自身が優秀で忠実な家臣たちを育て上げたと言っても過言ではないかもしれない。
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、あだは敵なり」という名言の通り、信玄は堅牢な城よりも優秀な人材こそが戦に勝つために重要であることを悟り、自分より身分が低い人間の意見にもしっかりと耳を傾け、手柄を挙げた者に対しては相応の報酬を与える必要があることも心得ていた。
信玄が人心掌握に長けた人物であったからこそ、信玄を筆頭とする武田家臣団は戦国の世で最強と謳われるほどに力を付けていったのだろう。
そして信玄は多くの戦国猛者たちをまとめ上げるだけでなく、若手の育成にも力を注いでいた。将来の幹部候補として、信玄の最も傍に置かれた有望な6名の少年、それが「奥近習六人衆(おくきんじゅうろくにんしゅう)」だ。
この定員6名の側近たちは信玄からことさら深い寵愛を受け、常日頃から信玄の傍に侍り、時には信玄の夜伽の相手役を務めることもあったという。
信玄の「奥近習六人衆」となった人物の中には、真田幸村の父である真田昌幸などがいるが、今回は特に信玄に寵愛された奥近習「土屋昌続(つちや まさつぐ)」について解説しよう。
信玄から格別の扱いを受けた土屋昌続
土屋昌続(つちやまさつぐ、土屋昌次とも)は、武田二十四将の1人に数えられる名将であり、「片手千人斬り」の異名で知られる土屋昌恒(まさつね)の実兄にあたる人物でもある。
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昌続の元々の名は「金丸平八郎」であり、清和源氏流武田氏一門の金丸筑前守の次男として生まれた。筑前守は武田家の譜代家老で、信玄の教育係(傳役)を務めた人物だ。
筑前守の嫡男であり、昌続の兄である金丸平三郎は、信玄の奥近習横目役を務めた人物だが、武田信廉の被官の逆恨みを買い、1560年頃に殺害されてしまったといわれる。
平八郎は兄の死後に「奥近習六人衆」に登用されて信玄の傍に仕えるようになり、後に信玄から「昌」の字を与えられて「昌続」の名を、武功で桓武平氏三浦氏流土屋家の名跡を継いだことにより「土屋」の姓を、後に名乗るようになった。
昌続は、奥近習六人衆の中でも特に信玄から深く寵愛された人物だ。
織田信長が信玄宛てに贈った貴重な猩々緋の笠を、信長の使者の目の前で昌続に与えたり、奥近習六人衆の中でただ1人だけ歌会で信玄の隣に座ることを許されるなど、格別の待遇を受けていた。
『※甲陽軍鑑』には昌続について「信玄公御座をなをし」と記されており、つまり昌続は信玄の夜伽の相手を務めることもあったという。
※『甲陽軍鑑』とは、武田氏の戦略・戦術や武士道精神を記した軍学書であり、誤謬も多いが近年の研究では史料的価値が再評価されつつある。
信玄の昌続に対する愛情は決して一方的なものではなく、昌続もまた信玄を主君として心から慕い、忠誠を誓っていた。
22歳で侍大将に抜擢される
1561年に起きた「第四次川中島の戦い」で、昌続は初陣を飾る。
一時は上杉勢が信玄本陣に迫るまで追い詰められたが、昌続は信玄の傍を離れることなく勇猛果敢に奮戦したという。
1569年には「三増峠の戦い」で戦死した浅利信種の同心衆70騎と駿河先方衆30騎、合わせて100騎を率いる侍大将に抜擢された。
当時、侍大将に昇格された他の人物は皆40~50代で、昌続以外の奥近習六人衆が足軽大将を務める中、弱冠22歳で侍大将に昇格するというのは異例中の異例だった。
しかし昌続のスピード出世は、ただ信玄の贔屓によって成されたわけではない。
昌続の武人としての才覚は確かなもので、侍大将になったその年のうちに、信玄の命を受けて忍の加藤段蔵を討ち取ったとされる。
さらに1573年の「三方ヶ原の戦い」では徳川方の鳥居忠広と一騎討ちして首を討ち取った。
徳川十六神将に数えられる猛将・鳥居との勝負に勝った昌続の武名は、ここで一段と上がった。
その後も昌続は、義信事件後の下之郷起請文の取次役や、駿河侵攻においては朱印状奏者を務めるなど、武田家軍政の中枢を担う重要人物となっていく。
信玄生存時の昌続の働きぶりは、信玄に対する絶対的な忠誠心があったからこそのものだったといえるだろう。
信玄の死、そして戦場で壮絶に散った昌続
順調に出世を重ね、主君の恩義に応えるべく尽力していた昌続だったが、1573年4月、三方ヶ原の戦いを経た西上作戦の帰路で信玄が病に倒れ、この世を去った。
昌続は殉死を望んだが、武田四天王の1人である高坂昌信に説得されて、武田家を支え続けるために思いとどまった。
信玄は自分の亡骸を諏訪湖に沈めるよう遺言を遺したと伝えられているが、昌続は信玄の遺骨を阿智村駒場から甲府に持ち帰って、自邸の庭先に埋葬したという。
信玄の死から2年後、武田家を継いだ勝頼は、昌続をはじめとする側近や重鎮たちの進言を退け、織田・徳川連合軍との決戦を決断する。
この時31歳の昌続は「長篠の戦い」に出陣し、天神山に陣を敷いて織田勢に果敢に挑み、三重柵の二重まで突破する活躍を見せたが、織田軍の一斉射撃を浴びて壮絶な最期を遂げた。
昌続には養女がいたものの、生涯妻帯せず実子もいなかったため、その名跡は弟の昌恒が継ぐこととなった。
昌続の首級は従士の温井左近昌国が切り落とし、甲斐まで連れ帰ろうとしたが逃げきれず、首は埋められ、温井もその場で自刃したという。
愛知県新城市の設楽原決戦場には、土屋昌続戦死之地の石碑が現存している。
昌続は信玄の影武者だった?
弟の昌恒と比べると派手な逸話や伝説がなく、歴史の陰に隠れがちな昌続だが、一説には信玄の影武者であったともいわれている。
昌続が所持していた土屋家に代々伝わる刀には「影法師」という文字が刻まれており、これは昌続が信玄の影武者を務めたためだと考えられている。
昌続が本当に信玄の影武者だったのだとしたら、その忠臣ぶりと優秀さの割に目立つエピソードが少ないのは当然だ。影が人目を引くほど目立つことなど、あってはならないことである。
信玄の死後、負け戦とわかっていながら織田の鉄砲隊に果敢に挑んでいった昌続。彼はその時、どのような思いを抱き戦場に散っていったのだろうか。
もしも彼岸で信玄と再会できたのなら、それは昌続にとって何よりの幸せだったのかもしれない。
参考 :
佐藤正英(校訂・訳)『甲陽軍鑑』
柴辻俊六 (編集)『新編武田信玄のすべて』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部
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