二宮事件とは
中国の三国時代、222年の建国以降、呉は孫権による長期政権が続いていた。
孫権は長男の孫登を後継者として選んでいたが、241年に孫登が33歳の若さで病死すると、後継者が白紙になってしまう。
ここで発生したのが「二宮事件」(にきゅうじけん)と言われる孫権と後継者候補に加え、呉の重臣まで巻き込んだ大規模な後継者争いである。
今回は、10年近くもの間続き、呉の弱体化を招いた二宮事件について調べてみた。
孫登の死
全ては、241年に後継者である孫登が、33歳の若さでこの世を去った事から始まる。
孫登は周囲からの人望は勿論、政治的手腕も優れており、孫権の後を継ぐに相応しい人物だった。
次の皇帝となるはずだった孫登の死によって後継者選びは再度白紙となり、孫権の息子達の間で後継者争いが勃発する。
病死した孫登を除いて、孫権が最も手に掛けていたのは三男の孫和だった。(次男の孫慮は232年に20歳で死去)
孫登も孫和と仲が良かったため、遺言で孫和を後継者とするよう書き残しており、陸遜に諸葛瑾(しょかつきん : 諸葛亮の兄)といった呉の重臣も孫和を支持していた。
後継者となるはずだった孫登直々の指名に加え、重臣も孫和を支持するなど、孫和が後を継ぐ環境は整っていたが、呉の内部にはそれを快く思わない人物がいた。
後継者争いの始まり
後継者が決まりつつあった呉の未来を狂わせたのが、孫権の長女である孫魯班(そんろはん)である。
彼女は孫和の母親である王夫人と仲が悪く、王夫人と孫和を失脚させるため、孫権に対して二人のネガティブキャンペーンを仕掛けるようになる。
孫権も孫魯班の讒言を間に受けてしまい、孫和を遠ざけるようになる。
そして、四男の孫覇に対しても孫和と同じように接するようになり、孫覇のための宮殿を作るなど厚遇する。
呉には孫権の息子二人のために「二」つの「宮」殿が存在する事になったが、泥沼化必至となった後継者争いが呉に対して悪影響を与えるのは火を見るより明らかだった。
泥沼化する二宮事件
後継者が孫和に決まりつつあったところで孫魯班の横槍が入り、呉の内部では孫和派と孫覇派に分裂する事になる。
ここで更に事態を深刻化させたのは、呉の臣下の間で燻っていた重臣同士の権力争いだった。
呉という国は「地方豪族による連立政権」であり、家臣の間で権力争いが繰り広げられていた。
陸遜を初めとする呉の重臣が推している孫和の立場が微妙になったという事は、孫覇が後継者に選ばれたら家臣の立場も逆転する事を意味する。
思わぬところから転がり込んで来たチャンスを手にするべく、全琮(孫魯班の夫)を初めとする下克上を狙う家臣達は孫覇を推すとともに孫和、及び孫和派の重臣に対する讒言を行うようになる。
孫和と孫覇の兄弟に加え家臣同士も権力争いをするなど、呉は寿命を迎えつつある孫権と後継者のために纏まるどころか内部分裂寸前の状態になっていた。
陸遜の死と二宮事件の結末
時が経つにつれて深刻化する呉の権力争いに危機感を抱いた陸遜は孫権に上奏文を送り、長子を大切にするよう説いている。
残念ながら、陸遜の言葉によって孫権が孫和を後継者にする事はなく、孫覇派の楊竺が告発した陸遜に対する20条の疑惑事項によって陸遜は失脚させられてしまう。
陸遜の元には孫権から問責の使者が何度も訪れ、ついには憤死する。(陸遜の死に関して正史には詳しく書かれておらず「憤死」という曖昧すぎる記述から病死だったとも自殺だったとも言われており呉の歴史の「闇」を感じるが、いずれにせよ呉の重臣である陸遜に相応しい最期ではなかった)
一方、陸遜を結果的に死に追いやった楊竺も「孫覇を後継者にすべき」という孫権との密談が漏れた事から処刑されるなど、二宮事件は解決の糸口が見付かるどころか更に混乱を深める。
結局、孫和も孫覇も廃嫡(孫覇は事実上の死罪)となり、後継者には末子の孫亮(250年当時8歳)が選ばれる事で、10年近く呉に混乱を招いた二宮事件は終結を迎えた。
呉のその後
252年、孫権が当時としては超長寿の71歳でこの世を去る。
孫亮が即位した時はまだ10歳であり、二宮事件によって多くの家臣が追放(もしくは処刑)されていたため、呉の内部はボロボロになっていた。
若いを通り越して「子供」の孫亮に政治など出来るはずもなく、呉は再び家臣や皇族同士による権力争いによって混乱の時代になる。
身内同士の内紛によって自ら国力を衰退させた呉は、最後まで二宮事件による人材難の後遺症に悩まされ、280年の晋の侵攻によって呆気なく滅亡した。
演義で描かれていない事に加え全体的に「地味」な印象が強い呉で起きた出来事であるため二宮事件の知名度は高くないが、三国時代にいくつも起きた後継者争いの中でも最大規模のものであり、呉の衰退に繋がる意味でも非常に大きな事件だった。
優秀な後継者である孫登の早死にといった不幸はあったが、取り返しの付かない段階になるまで孫権が後継者を選べなかった(しかも喧嘩両成敗という形で両方とも廃嫡している)のも事態を深刻化させた一因であり、晩年は「老害」と化した孫権を象徴する出来事にもなっている。
必ずしも年長者が優れている訳ではなく「年功序列」もいい事ばかりではないが、後継者を決める際に優秀な者を選ぼうとすれば、ほぼ確実に内部分裂が起きると歴史が証明している。
二宮事件に限らず歴史に起きた後継者争いは、余程の事がない限り年長者を選び支援する体制を整える事が最も無難であるという教訓を後世に残している。
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