安土桃山時代

豊臣秀吉は本当に『貧しい農民の子』だったのか?消された父と出自をめぐる謎

画像 : 狩野光信画『豊臣秀吉像』 public domain

低い身分から天下人にまで成り上がり、戦国時代を終わらせた男・豊臣秀吉

日本人なら誰でも知っているほどの有名人である秀吉だが、実はその正確な出自はいまだに明らかではない。

秀吉に仕えた竹中半兵衛の息子・竹中重門(しげかど)が書いた『豊鑑』によると、秀吉は「郷のあやしの民の子(身元もよく分からない村の下層民の子)」であり、父母の名前も一族も定かではないとしている。

だが、幼い頃の秀吉は本当にそこまで卑しい身分であったのだろうか。

本記事では、秀吉の両親や一族についての代表的な説を紹介し、その出自を考察する。

秀吉の父について

画像 :『絵本太閤記』に描かれた秀吉の父・中村昌吉 public domain

現在、『豊臣秀吉の父』とされる人物はふたりいる。

ひとりは実の父である木下弥右衛門(きのした やえもん)。
もうひとりは、弥右衛門の死後に継父となった竹阿弥(ちくあみ)。

秀吉の姉と秀吉は弥右衛門の子であり、弟の秀長と妹の旭は竹阿弥の子、というのが小説やドラマなどにおける定番の構図となっている。

しかし、弥右衛門や竹阿弥がどのような人物であったかは、同時代の史料で確認することはできない。
そのため、秀吉の父の経歴については江戸時代以降に編纂された史料を参照するしかない。

秀吉の父についての代表的な説は、以下の3つである。

・『甫庵太閤記』秀吉の父は、織田大和守家の織田達勝に仕えた尾張中村の住人・築阿弥入道。代々武士の末席に加えられていたが、築阿弥の代になって家は没落した。

・『祖父物語』秀吉の父は尾州ハザマ村生まれの築アミで、織田信長の同朋衆。清須に在住し、そこで秀吉が産まれた。

・『太閤素性記』秀吉の父は木下弥右衛門。尾張中中村の人で、織田信秀の鉄砲足軽であり、秀吉が8歳のとき、天文12(1543)年に死んだ。その後、織田信秀の同朋衆である築阿弥が秀吉の母に婿入りし、秀長と旭をもうけた。

ざっと眺めてみると、秀吉の実父が木下弥右衛門なのか築阿弥(竹阿弥)なのか、という点からして見解がバラバラである。

また、秀吉の父が現役であった頃、織田家には信長の同朋衆も、鉄砲足軽隊も存在していなかったと考えられている。
この時点で『祖父物語』『太閤素性記』の記述をそのまま信用するわけにはいかなくなる。

『甫庵太閤記』の記述についても、史料というより小説としての側面が強く、創作が多々混ざっているという指摘があるため、鵜呑みにすることはできない。

しかし、上記の説には共通点がある。それは「秀吉の父は織田家に仕えていた」ということだ。

秀吉が信長に仕えて立身出世した背景には、かつて武士であった父の存在があったとは考えられないだろうか。

秀吉の母について

画像 : 大徳寺蔵「大政所像」public domain

同時代の史料によると「秀吉の母は尾張愛知郡御器所村で、永正14(1517)年に生まれた」とされている。

通説では『なか』とされるが、この名前を確認できる史料はない。

秀吉のいとこである青木一矩の子孫が所有する家系図によると、秀吉の母は、尾張愛知郡の住人・関弥五郎兼員の娘であったとされる。

『関』という苗字の記録からみて、秀吉の母は農村部にあって一定水準以上の経済力や地位を有していたとみていいだろう。
当時の農村部で苗字を公称することは、有力な百姓でなければできなかったからである。

そうすると秀吉の父は「有力な百姓の娘と結婚できる身分であった」ということになる。

この推測は、上記の「秀吉の父は織田家に仕える武士であった」という説を補強する材料にはならないだろうか。

実は裕福だった?秀吉の実家

画像 : 豊臣秀吉の生誕地の石碑 wiki c Bariston

秀吉は低い身分から成り上がった、という伝説は間違いではない。

しかし、その『低い身分』というのは、あくまで貴族や大名からみた話であり、一般庶民の感覚でいえば、秀吉の実家は中流以上の家庭であったのだろう。

これは、秀吉が織田家に仕えて順調に出世し、地位を築いていったことからも推測できる。

もしも秀吉が本当に最底辺の身分に生まれたのであれば、軍役や文書の発給など、武将としての業務をこなせるほどの学力や教養も身につかなかっただろう。

また、秀吉子飼いの武将であった福島正則は、その出自について「秀吉の父方のいとこである」という説が伝わっている。
その系譜についてもさまざまな説があるが、本当に秀吉の父が名もないような身分であれば、こうした血縁関係を示す伝承自体が残ることは考えにくい。

秀吉は「自分は幼少期に孤児であった」と北条氏直への手紙でつづっているが、これは父の死後のことであったと考えられる。
父が亡くなったあと家は没落し、経済的に困窮した秀吉は奉公へ出ざるを得なくなったのではないだろうか。

若い頃の秀吉は農業や商業など、土地を転々としながらさまざまな職業を経験した。

このことが後に「秀吉は低い身分の出」であるというイメージにつながったのだろう。

存在を抹消された理由

画像 :『醍醐花見図屏風』に描かれた秀吉と北政所 public domain

それでは、秀吉の父が、秀吉によって官位を追号された形跡もなく、墓所が築かれたかどうかも明らかでないのはなぜだろうか。

その理由として考えられるのは、秀吉が天下人となった後、自らの出自を意図的に曖昧にし、あるいは改ざんしようとした可能性である。

秀吉は、天正13(1585)年の関白就任前後に、自分は天皇の子であるとほのめかす「皇胤説」を広め始めたという。

「自分の父親は帝である」と自称しはじめた以上、秀吉はおおっぴらに実の父親の存在を認めるわけにはいかず、あたかも最初からいなかったかのように扱ったのではないだろうか。

そのため、実父に官位を追贈せず、墓所の所在も定かでないのは、むしろ意図的な抹消の結果とも考えられる。

「郷のあやしの民の子」とされた男の出自をめぐる謎は、今も完全には解かれていない。

だが、その出自に目を凝らすことでこそ、我々は「人たらし」としての秀吉の原点に触れることができるのかもしれない。

参考資料 :
羽柴秀吉とその一族』 黒田基樹著 角川選書
『秀吉研究の最前線』 日本史史料研究会編 洋泉社歴史新書
『福島正則』 福尾猛市郎・藤本篤著 中公新書
『図説豊臣秀吉』 柴裕之編著 戎光祥出版
文 / 日高陸(ひだか・りく) 校正 / 草の実堂編集部

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日高陸(ひだか・りく)

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