幕末の動乱期、日本の近代化に大きな影響を与えながらも、その功績が十分に知られていない人物がいます。
オランダ海軍士官のファン・カッテンディーケです。
彼は、長崎海軍伝習所で勝海舟をはじめとする日本の志士たちに海軍術を教えただけでなく、単なる技術指導を超えて「近代国家とは何か」という本質的な問いを日本人に投げかけました。
今回は、知られざる功労者の足跡を辿ってみましょう。

画像:長崎海軍伝習所の教官をつとめたカッテンディーケ public domain
目次
ファン・カッテンディーケとは
ペリー来航の2年後にあたる1855年、幕府は長崎海軍伝習所を急遽設立します。
そして1857年、第二次派遣教官としてファン・カッテンディーケは来日しました。
黒船来航という衝撃的な出来事によって、当時の日本はそれまでの鎖国政策の限界を痛感していた時期でした。
黒船によって動揺した幕府は急ピッチで海軍学校を設立し、オランダに教官の派遣を依頼しました。
その要請に応えて日本の地を踏んだのが、カッテンディーケだったのです。
彼は日本滞在中の記録を『日本滞在記』として残しており、その一部は『長崎海軍伝習所の日々』というタイトルで日本でも出版されています。
この記録を読むと「外から見た」日本の姿が鮮明に浮かび上がってきます。
西洋人の目に映った幕末日本の社会情勢、人々の考え方、そして国家としての課題が、冷静な観察眼によって記録されているのです。
長崎海軍伝習所での教育活動
長崎海軍伝習所でカッテンディーケが教えた生徒の中には、このあと日本の近代化に大きな役割を果たす人物たちがいました。
その筆頭が勝海舟であり、多くの幕臣たちがカッテンディーケから海軍術の基礎を学びました。

画像:勝海舟 public domain
しかし、彼が教えたのはただの技術だけではありません。
より重要だったのは、近代国家における国民の在り方、また国防に対する考え方など、根本的な国家観でした。
カッテンディーケは、日本人生徒たちの学習能力の高さには感心していましたが、同時に彼らの国家意識の薄さに大きな危機感を抱いていました。
技術は学べたとしても、それを活かす国家体制や国民意識が伴わなければ、真の近代化は実現できないと考えていたのです。
オランダと日本の特殊な関係
なぜ日本がオランダに海軍教官の派遣を依頼したのか、その背景には両国の特殊な関係があります。
オランダは鎖国時代を通じて、一貫して日本の友好国でした。
この関係が築かれた理由は、当時のヨーロッパにおける宗教情勢にありました。
16世紀から17世紀にかけて、スペインとポルトガルはアジアに積極的に進出していましたが、彼らの目的は貿易だけではありませんでした。
カトリックの布教から入り、最終的には武力による征服が大きな目的だったのです。

画像 : 宣教師と日本人(1600年ごろ) public domain
この「布教」スタイルは、中南米では大成功を収めました。
インカ帝国やアステカ帝国といった文明は滅ぼされ、現在の中南米諸国はほぼ全てがカトリックで、スペイン語(ブラジルはポルトガル語)を話すようになりました。
インカ帝国の最後の皇帝アタワルパが、スペイン人ピサロによって拉致され、身代金を支払わされた後に処刑された事件は、彼らの本質を物語っていると言えるでしょう。
こうした侵略の危険性を日本は早期に察知し、鎖国と禁教という政策で対抗しました。
そして同じキリスト教国でも、プロテスタントのオランダが「布教をしない」という条件で、唯一の貿易相手国として選ばれたのです。
カッテンディーケが見抜いた日本の課題
カッテンディーケが日本に滞在していたとき、この国が抱える根本的な問題を鋭く見抜いていました。
それは先述したように「日本人が近代国家の国民としての自覚を持っていない」という事実でした。
長崎の商人に「もし外国軍が侵略してきたらどうするか?」と尋ねたところ、返ってきた答えは「それは幕府の考えることだ」という答えでした。
こうした庶民の姿勢に、カッテンディーケは深い憂慮を感じたのです。
近代国家が成立するためには、民衆が「自分は日本人だ」という国民意識を持つことが不可欠です。
「政治は幕府、あるいは武士のやることであって、われわれは関係ない」という態度を多くの人々が取る限り、その国は近代国家として成立せず、いずれどこかの国の植民地になってしまう危険性があると彼は考えていました。
当時のアジア諸国の多くが現実として西洋列強の植民地となっていく中で、日本が独立を保つためには、技術の習得以上に「国民意識の確立」が重要だったのです。
勝海舟への影響と江戸城開城

画像 : 勝海舟 public domain
歴史の結果だけを見れば、カッテンディーケの懸念は杞憂に終わりました。
明治維新という歴史的大変革を経て、日本は国家として劇的な変化を遂げたのです。
廃藩置県によって各藩は消滅し、庶民は日本国民へと変貌を遂げます。
その背景には、尊王攘夷運動が日本人の愛国心を高めたという事実もあったかもしれません。しかし司馬遼太郎は、カッテンディーケの影響もあったのではないかと指摘しています。
長崎海軍伝習所におけるカッテンディーケの一番弟子は、あの勝海舟でした。
勝に対して「国民が成立しない限り日本は大国に食われてしまう」と常々言っていたのではないかと、司馬は推測しており『この国のかたち(二)』の中で、次のように言っています。
「そうでなければ、後日、江戸を薩長にあけわたして、いわば主家の葬送役をつとめるようなことをしなかったろう。しかも勝は、善事をなしたかのようにひるむところがなかった」
勝海舟の江戸城無血開城は、古い考え方からすれば「主家(幕府)の裏切り」と見なされかねない行為でした。
実際に幕臣の中には江戸城開城の翌日にピストル自殺して、幕府に殉じた人もいましたし、彰義隊のように最後まで抵抗した者たちもいました。
しかし勝は個人的な忠義よりも、日本という国家の存続を優先したのです。
この判断の背景には、カッテンディーケから学んだ「国民国家」という概念があったのではないでしょうか。
日本近代化におけるオランダの功績
オランダが日本の近代化に果たした役割は、カッテンディーケの教育活動だけにとどまりません。
ペリー来航よりもずっと前から、オランダは日本に対して開国の必要性を説いていました。

画像 : ウィレム2世 public domain
天保15年(1844年)、オランダ国王ウィレム2世は将軍に親書を送り、開国を勧めています。
「蒸気船の登場で鎖国は不可能になった。日本を戦乱から守るためにも開国すべきだ」
その内容は驚くほど的確であり、黒船来航の9年前からすでに指摘されていたのです。
さらにペリー艦隊の来航についても、当時の在長崎オランダ商館長を通じて幕府に報告されていました。
オランダは一貫して日本の友好国として、その独立と平和を願っていたのです。
しかし幕府は無視してしまいます。
そしてペリー艦隊の来航により動揺し、事態打開のために再びオランダに支援を求めました。
その要請に応えるかたちで、長崎海軍伝習所の設立が進み、カッテンディーケら教官団の来日が実現したのです。
カッテンディーケのメッセージとは?
ファン・カッテンディーケの洞察は、現代の民主主義においても重要な示唆を含んでいます。
彼が150年以上前に指摘した「国民意識の確立」こそが、現代の民主主義の根幹を形成しているからです。
カッテンディーケが危惧した「政治は他人事」という態度は、現代の民主主義国家でも深刻な問題となっています。
選挙の投票率低下、政治への無関心、そして「誰がやっても同じ」という諦めの声。
それは、かつて長崎の商人が「政治は幕府の考えることだ」と答えた態度と、本質的には通じるものがあるのかもしれません。
一人ひとりが「自分たちの未来は自分たちで決める」という主体的な意識を持たなければ、民主主義は本来の力を発揮できません。
カッテンディーケが見抜いた「国民意識の希薄さ」は、今もなお民主主義を揺るがす根本的な問題なのです。
参考文献:
司馬遼太郎(1993)『この国のかたち(二)』文藝春秋
井沢元彦(2017)『英傑の日本史(新撰組・幕末編)』KADOKAWA
文 / 村上俊樹 校正 / 草の実堂編集部
この記事へのコメントはありません。