「犬鳴村」と聞けば、福岡県の犬鳴峠周辺にまつわる心霊スポットや、都市伝説を思い浮かべる人が多いかもしれない。
犬鳴村に繋がっていると伝わる「旧犬鳴トンネル」は、かつて実際に殺人事件が起きた場所としても知られており、犬鳴村はもし足を踏み入れれば二度と帰ってはこれないという、全国でも指折りの恐怖スポットと噂されている。
ただし、こうした「犬鳴村」の話はあくまで創作された都市伝説であり、実在の地名や村としての記録は存在しない。
しかし、かつて福岡県宮若市の犬鳴地方には、「犬鳴谷村(いぬなきだにむら)」と呼ばれる実在の集落が存在していた。

画像:犬鳴分校の児童と教職員の記念写真(大正10年撮影)public domain
今では集落のほとんどが犬鳴ダムの底に沈んでしまったが、「犬鳴御別館跡地」や「日原神社」など、かつての歴史を感じさせるいくつかの痕跡も残されている。
今回は、17世紀末に福岡藩の要所として成立し、20世紀末にダム底に沈んだ「犬鳴谷村(いぬなきだにむら)」の歴史を紐解いていこう。
犬鳴谷村、成立以前の歴史

画像:黒田長政騎馬像(福岡市博物館蔵) public domain
『筑前国続風土記』によれば、犬鳴山と呼ばれるようになる前は、この地域は「火平(ひのひら)」または「大河内」と呼ばれていたという。
織田信長や豊臣秀吉に重用された黒田官兵衛の嫡男で、福岡藩の初代藩主となった黒田長政が、1601年に筑前国に入府した際に、この辺りを視察したといわれている。
大坂夏の陣が起こった1615年には、藩主として産業振興に力を入れていた黒田長政の命により、犬鳴山での植林が始まり、以後1623年に長政が没するまでの間に、犬鳴峠(旧称・久原越)の道も開かれたとされている。
第2代藩主の黒田忠之の時代には、年間植林面積が5万坪に及ぶようになり、福岡藩の林業の要所として、勘場という役所が建てられ管理されるようになった。
第4代藩主の黒田綱政の時代、1691年には、福岡藩は藩有林の維持管理のために御譜代組足軽の篠﨑、藤嶌、三浦など数家に移住を命じ、足軽の集落が形成されたことにより「犬鳴谷村」が成立したとされる。
犬鳴谷村の足軽たちは、公的に帯刀を許された士分扱いの上級足軽として扱われ、組頭には篠﨑家当主の篠崎文内が任命された。
「犬鳴」という地名が使われるようになったのも犬鳴谷村が成立してからのことで、その由来は「犬でも越えられない深い山で犬が悲しく鳴いたため」、「峠道の途中に滝があり、犬が上に登れず鳴いていたため」「律令時代に稲置(いなぎ)の境界線に位置していたため、いなぎが訛っていんなきと呼ばれた」など諸説ある。
江戸時代の犬鳴谷村
筑前国に生まれた学者の貝原益軒(かいばら えきけん)は、『筑前国続風土記』の編纂事業のために、1696年に犬鳴山を訪れている。
1703年には、日吉山王宮より大国主命・市杵島姫命・大山祇命が勧請され、犬鳴字下谷の割谷に沿った高台に、村の鎮守社として「日原神社(ひのわらじんじゃ)」が創建された。

画像:日原神社、左側には天満宮(2018年撮影) wiki c Inglid
日原神社の「ひのわら」は、犬鳴のかつての地名「ひのひら」に由来する社名とされている。
1732年の享保の大飢饉では福岡藩内でも多数の餓死者が出たが、犬鳴谷村は困難を乗り越えて存続した。
その後、1748年には幕府から黒田家にオタネニンジン(高麗人参)の種子が下賜され、犬鳴山での栽培に成功。
1762年には、その成果が幕府に献上されたと伝えられている。
江戸時代中期以降の犬鳴谷村は、豊富な木材を利用した木炭や和紙の製造、銅鉱山の開発、タタラ製鉄事業など、数多くの産業に特化した地域となった。
福岡藩の要所であったことから幕末の1864年7月には、福岡藩内の勤王攘夷派の中心人物だった加藤司書(ししょ)の推進により、非常時の藩主の逃げ城として「犬鳴御別館」の建設が開始された。
しかしこの「犬鳴御別館」をきっかけに、福岡藩内を揺るがす大事件が勃発してしまったのだ。
140名以上が処罰された、乙丑の獄(いっちゅうのごく)

画像:犬鳴御別館の外観 wiki c 郵便振替
幕末の動乱期、福岡藩は非常時に藩主が退避するための逃げ城として、山深い犬鳴の地に「犬鳴御別館」を建設し始めた。
ところが、藩内の佐幕派はこの建設が、勤王攘夷派によって藩主・黒田長溥(ながひろ)を幽閉し、養嗣子の長知(ながとも)を擁立して実権を掌握するための拠点ではないかと疑い、長溥に報告した。
この報告は、藩内で高まっていた勤王派への不信をさらに強める一因となり、最終的に「乙丑の獄(いっちゅうのごく)」と呼ばれる藩内弾圧へとつながっていった。

画像 : 黒田長溥。幕末の11代福岡藩主。福岡市博物館所蔵 public domain
黒田長溥は、もともと勤王寄りの立場をとっており、藩内で勢力を強めていた勤王攘夷派の動きを黙認していた。
しかし、彼らの行動は次第に過激化し、ついには長州藩の急進派を擁護する姿勢を取っているとして、幕府から福岡藩は厳しく叱責を受けることになる。
こうした中、藩内の勤王攘夷派を主導していた加藤司書は、大老・黒田溥整(ふせい)と連名で、「藩内の心を一つにするためにも、佐幕的の立場を見直してほしい」とする建白書を長溥に提出した。

画像 : 加藤司書(かとう ししょ)public domain
だがこの行動は、藩主に対する反抗と受け取られ、長溥の逆鱗に触れてしまう。
結果として立場を無くし、追い詰められた加藤ら勤王攘夷派は、内部対立の挙句に同士討ちを始めてしまい、まもなく佐幕派が復権して勤王攘夷派弾圧が始まった。
そして1865年、福岡藩の藩士と関係者140名以上が逮捕され、加藤司書や建部武彦など7名が切腹、藩士の月形洗蔵など14名が斬首、女流歌人の野村望東尼など15名が流罪となった。
福岡藩内で起きたこの大規模な弾圧事件は、乙丑年に起きたことから、「乙丑の獄(いっちゅうのごく)」と呼ばれる。
結局、犬鳴御別館は当初の目的である藩主の避難所として使われることはなく、1869年に福岡藩知事となった黒田長知が現地を視察した際、一時的に宿泊所として利用されたのみであった。
以後は放置されて1884年に倒壊し、今では跡地を残すのみとなっている。
明治維新後の犬鳴谷村

画像:黒田長知の肖像写真。 public domain
明治維新後、黒田長溥の養子で世子だった黒田長知は、福岡藩の知藩事に任命されたが、藩政下で発覚した贋金製造事件(太政官札贋造事件)の監督責任を問われ、1871年にその職を罷免された。
後任の知事として、有栖川宮熾仁親王が福岡に赴任。
同年の廃藩置県により筑前国は福岡県に再編され、翌年には明治政府によって教育制度の基本方針となる「学制」が発布された。
それに伴い、犬鳴谷村にも学校が設けられたとされている。
1877年に西南戦争が起きた際には、もともと足軽の子孫が多く暮らしていた犬鳴谷村から多くの壮年男性が徴兵され、小倉歩兵第十四連隊に配属された。
彼らは各地を転戦し、中には戦死した者もいたが、戦功を挙げて乃木希典から表彰されたという伝承も残っている。
また、犬鳴谷村で代々組頭を務めていた篠崎家の一人、篠崎豊彦は、日露戦争に従軍して満州に渡り、戦後は大連に留まって実業を興し成功を収めたと伝えられる。
帰国後は政界にも関与し、1934年に死去。その遺骨は犬鳴ダムの奥にある篠崎家の墓地に埋葬されたという。
犬鳴谷村は、1889年に周辺の4つの村と合併して吉川村の一部となり、「吉川村犬鳴」として集落は存続していたが、犬鳴ダムの建設が進められることとなり、1986年までに全住民が脇田地区へ集団移転した。
鎮守であった日原神社も、水没を避けるために脇田に遷座され、1994年に犬鳴ダムが完成すると、かつての犬鳴集落跡地はダム湖の水底に沈んだのである。
都市伝説とは異なる犬鳴谷村の実態

画像:宮若市側の犬鳴隧道入口。入口左に記念碑。 wiki c Pontafon
実在した犬鳴谷村の歴史は、都市伝説として語られる「犬鳴村」とは全く無関係である。
「犬鳴村伝説」は、岡山県で発生した津山事件をもとに創作されたフィクションだとする説もあるが、信頼できる根拠には乏しく、あくまで噂の域を出ない。
実際、旧犬鳴トンネルでは1988年に殺人事件が、犬鳴ダムでは2000年に死体遺棄事件が発生している。
しかし、人目につきにくい山間部で事件が起こることは、犬鳴に限った現象ではない。
一方で、心霊スポットとして知られるようになった旧犬鳴トンネル(犬鳴隧道)は、不法投棄や暴走族の溜まり場となったことで問題視され、現在は封鎖されている。
周辺の道路は狭く、崖崩れや荒廃も進んでおり、立ち入りには現実的な危険が伴う。
たとえ都市伝説が事実無根であったとしても、安易に足を運ぶべき場所ではないことに変わりはないだろう。
参考 :
吉田悠軌 (著) 『禁足地巡礼【電子特別版】』
歴史群像編集部 (著)『全国版 幕末維新人物事典』
文 / 北森志乃 校正 / 草の実堂編集部
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