江戸時代に庶民の間で大人気だった「浮世絵」。
悠久の時を経た現代の日本でも多くの人に愛されていますが、欧米諸国でも人気があります。
代表的な人気浮世絵師としては、海外でも「HOKUSAI」の呼び名で親しまれている葛飾北斎(かつしかほくさい)、舞台役者のブロマイド(役者絵)などが有名な東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)、「見返り美人」で知られる浮世絵の始祖、菱川師宣(ひしかわもろのぶ)、やわらかな仕草が魅力的な美人画が人気の喜多川歌麿(きたがわうたまろ)などが挙げられるでしょう。
そして、今回取り上げるのが、NHK BSP4Kで3月23日(土)よる10:00~11:50、NHK BSで4月27日(土)よる8:40~10:30に放送となるドラマ「広重ぶるう」(主演:阿部サダヲ)で注目されている歌川広重(うたがわひろしげ)です。
浮世絵師・歌川広重。実は、火消し同心だった
歌川広重は、浮世絵ファンなら誰でもその名を知る江戸時代の人気浮世絵師です。
広重といえば、昭和40年(1965)から永谷園の定番商品「お茶海苔」などに封入されていた「東海道五拾三次カード」が思い浮かぶ人も多いのではないでしょうか。
当時、大人気だったのですが、2016年に復刻したときはコレクションしていた世代のみならず、広重を知らない若者世代の間でも「かっこいい」と人気が再燃したといいます。
下級武士の家に生まれ「火消し」をしていた広重
そんな歌川広重は、江戸の「八代洲河岸 定火消屋敷」(※1)の同心、安藤源右衛門の子として1797年(寛政9年)に生まれました。
※1 八代洲河岸…現在の「八重洲」
※1 定火消屋敷…消防組織の屋敷
広重は、まだ13歳の頃に母親と父親が相次いで亡くなり、火消し同心の職を継ぐこととなりました。
ところが、もともと幼い頃から絵を描くのが好きだった広重は、15歳くらいの頃に好きな浮世絵を描くことに専念したいと、当時人気だった歌川豊国(うたがわとよくに)の弟子入りを希望します。けれども、断られてしまい同門の歌川豊広(うたがわとよひろ)に弟子入りし、「広重」の画号を授かることとなったのです。
20代の半ばに同じ火消し同心の娘と結婚、26歳頃には、祖父十右衛門の実子・仲次郎に同心職を譲って後見となり、引き続き同心職の代番として浮世絵を描きながらも、勤務は続けていたようです。
広重の最初の作品は、歌舞伎役者を描いた「役者絵」でした。
その後もさまざまな題材の錦絵(多色摺の浮世絵版画)を描き、創作活動に励んでいた広重ですが、当時は派手で華やかな作風が好まれていた中、優しく穏やかで抒情的な印象の広重の作品は爆発的ヒットまでには至らなかったそうです。
その後、天保年間(1830~1844)に入り、「東都名所(とうとめいしょ)」(※2)という風景画シリーズを発表。フルカラーの美しい名所絵は人気となり、特に江戸の街を描いたものは地方から来た旅人の土産物としても愛されたそうです。
※2 東都名所…俗に、当時の号である一幽斎にちなみ「一幽斎がき東都名所」とも
大胆な構図の「冨嶽三十六景」に刺激を受ける
同じく、天保初年頃に出版されたのが葛飾北斎の代表作となった「富嶽三十六景」でした。
「富嶽」とは富士山を指し、さまざまな場所・季節・構図・色彩で必ず富士山が描かれている作品集です。出版当初は36図だったものの、あまりにも好評で「裏富士」10図が追加となりました。
当時、人々の間では富士山に対する信仰が厚く、「富士講(ふじこう)」という富士山を信仰する人々の集まりもあり、江戸各地に富士山を模した「富士塚」が作られていた時代です。そんな背景もあり「冨嶽三十六景」は大ヒット作品となりました。
その頃の葛飾北斎は70歳前半で、30代だった広重はかなり年上の北斎の大胆で斬新な発想や構図に衝撃を受け、多いに創作意欲を掻き立てられたようです。「一立齋(いちりゅうさい)」と名前を改め、より制作に邁進し天保4年(1833)頃から「東海道五拾三次」シリーズを世に送り出したのです。
「東海道五拾三次」は、江戸から京都を結ぶ53駅に、日本橋と京都三条大橋を加えた55図あります。各名所の抒情的な風景とともに、そこに息づく人々のいきいきとした姿を描いた作品群は臨場感があり、たちまち多くの人々の心を掴みました。
このシリーズによって広重は、浮世絵風景画家の第一人者となったのです。
ゴッホが影響を受け模写した広重の「名所江戸百景」
広重は、その後も江戸名所・歴史絵・戯画・春画・美人画などを手がけましたが、晩年の作品として有名なのが「名所江戸百景」です。
安政3年(1856年)に制作した連作の浮世絵名所絵で、幕末の江戸の名所とそこに暮らす庶民の姿が描かれています。
たとえば、隅田川の上空に打ち上げられた花火と川に浮かぶ屋形船の数々を描いた「両国花火」、急な激しい夕立で霞む遠景や隅田川にかかる大はしを急いで走っていく人々を描いた「大はしあたけのゆうだち」、手前の梅の木から柵の向こうの梅園の見物客を覗くという大胆な構図で、ゴッホが模写したということでも知られている「亀戸梅屋敷」ほか、今でも人気の作品が多く「名所江戸百景」は広重の集大成といわれています。
1858年(安政5年)、歌川広重は62歳でこの世を去りました。
友人の3代目歌川豊国による「死絵」には
〜東路へ筆をのこして旅のそら 西のみ国の名ところを見ん〜
意訳 「死んだら西方浄土(極楽)の名所を見てまわりたい」
という句を残しています。※「後代の広重の作ではないか」とする見解もあり
「ちゃきちゃきの江戸っ子で、相手かまわぬ話好きで宵越しの金を持たない無欲の人」といったイメージの広重が、美しい蓮の花が咲き乱れる極楽浄土を巡りながら、さまざまな景色に驚きつつ嬉々として絵筆を取る姿が思い浮かぶような気がする句です。
欧米で人気となった「ヒロシゲブルー」
延享4(1747)頃に、従来の藍色とは異なる、オランダ舶載品の「ベロ藍」(ベルリンブルー、プルシアンブルーとも)が初めて日本に輸入され、当時の浮世絵作家はこぞって用いるようになりました。
もちろん広重も「ベロ藍」を用いて、得意としている海・川・湖など水辺の風景を描き、多彩な表情を保つ「水」を巧みに表現。濃い青から淡い青まで繊細なぼかしによる美しいグラデショーンで描かれた作品群を見た人々は、さぞかし魅了されたことでしょう。
透明感と奥行きを感じさせる鮮やかな「ヒロシゲブルー」の広重の作品は、海を超えてゴッホやモネなどにも愛され、模写もされたことは有名です。
広重の作品は、江戸時代から現代にいたるまで世界中の人々を虜にし続けているのです。
まとめにかえて
歌川広重が「火消し同心」として生計を立てている傍らで、浮世絵を懸命に描いていたという物語が、NHKの特集ドラマ「広重ぶるう」です。
2023年に第42回新田二郎文学賞に選ばれた小説「広重ぶるう」(梶よう子 著)を原作としたドラマで、主人公は阿部サダオさん・広重の妻加代を優香さんが演じます。
ドラマで俳優さんが演じることで、歌川広重がより身近な人物として感じられるかもしれません。
放送日・時間はこちらをご覧ください。
参考:
・名古屋大学大学院 国際言語文化研究科〜『葉隠』における武士の衆道と忠義〜神 山 明
・文化庁「文化遺産オンライン」
・もっと知りたい歌川広重 改訂版 内藤正人 著
・太田記念美術館「広重ブルー -世界を魅了した青」
・ジャパンナレッジ 日本代百科全書「歌川広重」
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