戦国時代には多くの武将が活躍したが、その中に「戦国三大美少年」と呼ばれる男たちがいる。
その「戦国三大美少年」のうちの1人が、今回紹介する名古屋山三郎(なごやさんざぶろう)だ。
この名古屋山三郎、どれほどの美少年だったのかというと、蒲生氏郷が美少女と見間違えて妻に迎えようと家臣に身辺調査を命じ、男だと知ってからも自らの小姓に取り立てたほどの美しさだったという。
さらには「名古屋山三は一の槍」と謳われるほどの槍の名手であり、出雲阿国とともに歌舞伎踊りを世に広めた人物とも言われている。
後世に伝えられている逸話のほとんどが、まるで作り話のような名古屋山三郎だが、美貌で名を馳せた彼は一体どのような武将だったのだろうか。
今回は、戦国時代の伝説的イケメン武将「名古屋山三郎」の生涯に触れていこう。
名越流北条氏の家系に生まれ、蒲生氏郷の小姓になる
名古屋山三郎が生まれたのは、1572年もしくは1576年の頃だとされている。
名古屋氏は名越流北条氏の子孫で、織田信長とは親戚関係にあり、『森家家臣各務氏覚書』には「山三郎の父である那古屋因幡は織田信長の従兄弟にあたる」という記述がみられる。
幼少時代は母と共に京都の建仁寺で暮らしていたが、15歳の時に山三郎を美少女と見間違えた蒲生氏郷に見いだされ、氏郷の小姓として仕えるようになった。
一説には、氏郷に仕える前に、織田信長の弟である織田信包に仕えていたという説もある。
その後は蒲生氏の家臣として九州征伐や小田原征伐に参加し、1590年の陸奥名生城攻略、翌年の1591年に起きた九戸政実の乱で、それぞれ一番槍の武功を立てて2000石に加増された。
美貌の傾奇者として知られた山三郎は、名生城の一揆勢攻略において猩々緋の羽織を纏い、白綾に赤裏を足した具足を付けた華やかな出で立ちで一番槍をつけた。
この様子はのちに小唄となり「槍士槍士は多けれど、那古野山三は一の槍」と歌いはやされたという。
氏郷の死後、浪人を経て出家する
しかし、1595年に蒲生氏郷が死去してからは蒲生氏を去り、京都の四条付近で浪人として過ごした後に、出家して大徳寺に入り宗円と名乗った。
この時、山三郎と出会った長岡幽斎(細川藤孝、細川忠興の父)は、山三郎の美貌に感服し、
かしこくも 身をかへてける薄衣に しきにまさる墨染めのそで
(粗末な薄衣でも宗円が纏っていれば、錦にも勝る墨染の袖と見紛うようだ)
と、賞賛の歌を詠んだ。
しばらくは僧侶として俗世から離れた生活を送っていたが、織田氏と縁戚関係にあることから織田久右衛門と名乗り、還俗した。
その後は妹・岩が側室として嫁いだ森忠政に、家臣として仕えるようになる。
山三郎の色褪せない美貌や、茶の湯や和歌などの見識の深さに魅了された忠政は、山三郎を饗応役として取り立てて5000石の所領を与え、それは後に5300石まで加増された。
さらに山三郎の妹2人が森家の重臣と婚姻関係を結んだため、山三郎は森家の中で大きな発言力を持つようになったが、それを良く思わない森家譜代の井戸宇右衛門とは折り合いが悪く、度々いさかいを起こしていた。
「宇右衛門誅殺」を命じられるも、返り討ちされ死去
1603年、森忠政は関ケ原の戦いにおける恩賞として、美作国津山藩への移封後に、新しい城を院庄に建てることを計画した。
この時、忠政と対立関係となっていた井戸宇右衛門の誅殺役を、山三郎は自ら願い出た。
山三郎を気に入っていた忠政は渋ったが、山三郎の熱意に押し負けて忠政直々に刀を下賜した。
同年6月12日、城の建築現場で宇右衛門と居合わせた際、山三郎は宇右衛門に刀を抜いて襲い掛かったが、武勇の誉れ高い剛腕で知られた宇右衛門に逆に一刀両断され、あえなく落命した。
直後に宇右衛門も他の森家家臣の不意討ちにあい殺害され、山三郎の遺体は築城現場の北側、宇右衛門の遺体は南側に埋葬され、それぞれその場所に墓標として松の木が植えられた。
この2本の松は「片方が葉を繁らせると、片方が生気を失ったようになる」と伝えられ、いつの頃からか「睨合(にらみあい)の松」と呼ばれるようになったという。
元々2人の墓所は国道の左右にあったが、通行人に奇怪な現象が起きるということで、1655年に国道の場所を置き換えたという逸話が残っている。
い~津山 どっと・こむ「睨み合いの松・院庄東公園」
https://www.e-tsuyama.com/report/2011/04/post-145.html
出雲阿国とのロマンスの真偽
一説には名古屋山三郎は、歌舞伎踊りの創始者として知られる出雲阿国を妻(愛人)に持ち、阿国とともに歌舞伎を広めた始祖とも伝えられている。
しかし、戦国武将であった山三郎と、巫女から踊り子になったと伝わる出雲阿国に、実際に接点があったのだろうか。
阿国が始めた「阿国歌舞伎」の誕生には山三郎が関係しているとされている。これは阿国が踊りを披露する際、「山三郎の亡霊役を演じる男性とともに踊ったから」と解説されることが多い。
阿国が演じた演目は茶屋遊びの光景を描いた扇情的な内容であり、遊女の相手役として美男の誉れ高い山三郎が選ばれたというのが通説だ。
阿国歌舞伎は、阿国自身が男装して山三郎役を演じ、夫に女装をさせて茶屋の娘役を演じさせ、濃密にたわむれるものであったといわれる。倒錯的な阿国一座の演目は人々を熱狂させ、その後阿国歌舞伎は様々な変遷をたどって、現在の大歌舞伎とチンドン屋に繋がっていった。
当代随一の美男として知られる山三郎役を演じる阿国が、茶屋の娘役の男と艶やかに踊りながら絡み合う姿は、当時の人々にとって尋常ではない魅力を放ったに違いない。
詳細は今も不明なままだが、阿国歌舞伎が人々の口伝で伝わっていくうちに、阿国は役を超えて山三郎の妻と伝えられるようになり、「山三郎は歌舞伎の始祖」と言われるようになっていったとも考えられるのではないだろうか。
しかし山三郎は遊び好きの伊達男だったため、阿国と浮名を流していた可能性がないとは言い切れないのも、山三郎の人物像に深みを与える一因となっている。
名古屋山三郎亡き後
山三郎が死去した後、家督は山三郎の嗣子である名古屋蔵人が継いだが、蔵人は後に森家を去って前田利恒の召し抱えとなり、子孫は加賀藩士となって名越姓を称したと伝えられている。
山三郎の娘は徳川家康の小姓であった森可澄の正室となり、以降可澄の子孫は代々「森佐兵衛」を称し、旗本として明治維新まで存続した。
武勇で名を馳せた戦国武将は多くいるが、美貌で名を馳せて国色無双と称され、後世にまで名を残したのはこの名古屋山三郎と、豊臣秀次の小姓であった不破万作、石田三成や前田利常に仕えた浅香庄次郎の3人ぐらいのものだろう。
歌舞伎の始祖として語り継がれ、歌舞伎の演目『鞘当』の登場人物のモデルともなった山三郎は、江戸時代にも錦絵のモチーフとして好まれ、江戸の娘たちは山三郎の姿絵に色めき、今でいうアイドルのような扱いをされていたという。
美男な上に恋多き伊達男だったがゆえに、「豊臣秀頼は実は名古屋山三郎の子ではないか」という噂まで立てられたというが、真実は誰にもわからない。
伝えられる逸話の多くが伝説的で、掴みどころのない山三郎だが、それがかえって彼の魅力を高めているのだろう。
参考 :
長島淳子 (著)『江戸の異性装者たち―セクシュアルマイノリティの理解のために』
皆木 和義 (著)『名君の門 戦国武将 森忠政』
小和田 哲男 (著)『日本の歴史がわかる101人の話』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部
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