安土桃山時代

【その生き様が表れる】戦場で壮絶に散った戦国武将たちの辞世の句

画像:敗北の責任をとり、切腹を行おうとする武士(明石義太夫)。辞世の句を書き終えている。月岡芳年による画 public domain

「死に様は生き様」とはよく言ったものだ。

人生の最期には、その人物がこれまでどのように生きてきたかが如実に表れるという。

主君や家名を守るため、理想に描いた国家を作るため、命をかけて戦っていた戦国武将たちの辞世の句には、彼らの生き様が表れている。

戦国武将の中には、壮絶な死に方で命を落とした者も少なくはない。
「死」という事象に真っ向から立ち向かっていった彼らは、どのような覚悟でこの世を去っていったのだろうか。

今回は、壮絶な最期を迎えたと伝わる3名の戦国武将たちが遺した辞世の句を、その生涯や死に際の姿と共に紹介していこう。

陶晴賢 享年35

画像:歌川国芳「木曽街道六十九次之内 藪原 陶晴賢」(見立絵) public domain

何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有様の 定まれる身に

意訳:こうして死ぬことは、元より決まっていたことだ。今更何を惜しみ、何を恨むことがあろうか。

陶 晴賢(すえ はるたか、1521生~1555没)は、周防国の大名にして、西国一の戦国大名と呼ばれた大内義隆に仕えていた戦国武将だ。

美少年と評判だった晴賢は、衆道好みだった義隆から格別の寵愛を受けていた。
晴賢の元の名は隆房といい、これは元服時に主家大内氏の当主であった義隆から「隆」の一字を拝領して名乗ったものである。

元服後も義隆から格別の扱いを受け、弱冠19歳で毛利元就の援軍の総大将を担う権限を与えられて、出雲の尼子晴久の軍を撃退するなど、「西国無双の侍大将」と呼ばれるほどの活躍をしていた。

しかし武断派だった晴賢は、やがて義隆に重用されるようになった文治派との勢力争いに敗けて、大内家内での立場を失ってしまう。

そこで晴賢は義隆を見限り、大友宗麟の弟であり自分の甥でもある大友晴英を、大内氏の新当主に迎えることを望むようになった。

そして1551年に「京都の上意」を受けたとして謀反を起こし、義隆を長門大寧寺に追い詰め、自刃に追い込んだのだ。

画像:大寧寺(長門市)にある大内義隆主従の墓所 wiki c TT mk2

しかしそれから4年後、大内氏の実権を握って臨んだ「厳島の戦い」において、晴賢はかつての戦友であった毛利軍の奇襲にあって敗北し、毛利方についていた村上水軍に退路すら断たれてしまった結果、無念にも自刃することとなった。

晴賢の辞世の句からは、かつて寵愛を授かり忠義を誓った主君を死に追いやってでも、戦いに身を投じていった彼の覚悟がにじみ出ている。

晴賢の主君であった義隆は、自刃するにあたり『討つ者も 討たるる者も 諸ともに 如露亦如電 応作如是観』と辞世を遺した。

これは「討つ者(晴賢)も討たれる者(義隆自身)も、ともに命は露のように儚く雷光のように、一瞬で過ぎ去る無常なものであると思いなさい。」という、読む者に禅の教えを説くような意味となる。

義隆の辞世の句は、かつて目に入れても痛くないほどに寵愛した、晴賢に対して送った最後の言葉のようにも感じられる。

高橋紹運 享年39

画像:高橋紹運像 public domain

屍をば 岩屋の苔に 埋みてぞ 雲ゐの空に 名をとどむべき

意訳:我が屍が岩屋城の苔に埋もれたとしても、空の高くにこの名を留めよう。

高橋紹運(たかはし じょううん、1548生~1586没)は、豊後大友氏に仕えた武将であり、立花道雪の娘・誾千代の婿養子となった立花宗茂の実父にあたる人物である。

元々は吉弘鎮理(よしひろ しげまさ/しげただ)と名乗っていたが、大友氏の家臣であった高橋鑑種が起こした謀反の平定を成功させて武功を挙げ、大友宗麟の命により21歳頃に高橋鎮種と名乗るようになり、岩屋城と宝満城を継いだ。

その後、紹運は立花道雪の与力として、北九州を舞台に反大友氏の軍勢を相手に鬼神のごとき戦いぶりを見せた。
雷を切った逸話から「雷神」と称された立花道雪に対して、紹運は「風神」と称され恐れられたという。

しかし、1586年に大友氏の支えであった道雪が病没すると、それを好機とみて九州全土統一を狙った島津氏が、北に進軍を開始した。

劣勢に立たされた大友氏からは配下の多くが離反していき、残るは紹運率いる高橋氏と宗茂率いる立花氏のみとなってしまう。

大友宗麟は豊臣秀吉の下につくことを決意したが、秀吉に謁見し服従を表明するためには、どうにか島津軍を足止めし、時間を稼がなければならなくなったのだ。

画像:「嗚呼壮烈 岩屋城址」碑 public domain

どんなに大友氏が零落しようとも、紹運が大友氏を見限ることはなかった。

紹運が最期を迎えたのは、大友氏を滅ぼそうと進軍してきた島津軍を、居城の岩屋城にて迎撃した「岩屋城の戦い」の折だ。

紹運は763名の城兵とともに岩屋城に籠城し、島津軍の降伏勧告には応じず、兵量の多さで攻めてくる島津軍をひたすら撃退し続けた。
岩屋城周辺は、両軍の兵の血で真っ赤に染まったという。

そして半月に及ぶ激戦の末に、紹運らは敵兵多数を道連れにして玉砕を果たした。
岩屋城は陥落したが島津軍も多くの兵を失って消耗し、それが遠因となり島津氏は九州平定をし損ねたといわれている。

紹運の命がけの働きにより、息子の宗茂とその妻・誾千代が守る立花城は最後まで持ちこたえ、宗麟も秀吉との謁見を叶えることができた。

敵方の総大将であった島津忠長から「類まれなる名将」と賞賛され、秀吉にも「乱世の華」と讃えられた紹運の武勲は、彼が岩屋城の高櫓の扉に書きつけた辞世の句で詠ったように、数百年を経た今日までも語り継がれている。

清水宗治 享年45

画像:清水宗治の錦絵 public domain

浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して

意訳:浮世を離れて、今こそ死出の旅に出る。武士として誇り高く死に、この名を永く、高松の地に残していく。

清水宗治(しみず むねはる、1537生~1582没)は、三村氏や毛利氏に仕え、備中高松城の城主を務めた武将だ。

宗治の父は元々は備中国の国人であった三村氏譜代・石川家の家臣の身分であったが、宗治が石川家から離反して毛利方の小早川隆景に味方したことにより、石川家の出城だった備中高松城の城主の地位が宗治に与えられたという説がある。

下剋上により城主の地位を得た宗治は、その後毛利家の家臣として隆景の下につき、中国路の平定に従軍して、毛利氏からの深い信頼を得た。

備中高松城といえば羽柴秀吉軍による水攻めが有名だが、宗治が自害したのはその水攻めが行われた「備中高松城の戦い」の折である。

秀吉軍に備中高松城を攻められた宗治は、秀吉の交渉には応じず主君・毛利輝元への忠義を誓い、籠城し抗戦することを決意した。

画像:月岡芳年画「高松水攻め」/岡山市立中央図書館蔵 public domain

秀吉軍の水攻めにより水上の孤島と化してしまった備中高松城は、兵糧米も尽きかけついに落城寸前まで追い込まれた。

そこに毛利軍が援軍として駆けつけて戦闘は一時膠着状態となるが、毛利軍が備中高松城に物資を送ろうにも、城の周りは一面浸水していて手が出せなかった。

秀吉は毛利軍を討つために織田信長に援軍派遣を要請し、それを受けて信長は明智光秀を援軍として送ることを決めたが、その矢先に本能寺の変が起きた。

秀吉は、信長の死と光秀の裏切りの報せを受け、そのことを毛利方には隠して、宗治が自刃することを条件に城兵の命は助けると呼びかけた。
毛利輝元は備中・備後・美作・伯耆・出雲の5ヶ国を渡す代わりに宗治の助命を申し込んだが、秀吉がそれを拒んだために交渉は決裂した。

宗治は、5000の城兵の命を救うために、自刃を躊躇いなく受け入れた。
宗治の切腹は、その一部始終を見届けた秀吉が「武士の鑑」と感嘆するほどに見事なものだったという。

前日に我が子への遺書をしたため、死出の旅に出る覚悟を決めた宗治は、籠城中に乱れた身だしなみを整えてから、兄弟や家臣らと一艘の小舟に乗って秀吉の陣の前へと進み出た。

そして秀吉らが見守る中、秀吉から贈られた酒と肴で最後の盃を交わしたあと、宗治は能の「誓願寺」を悠然と詠ってから辞世を遺し、その場で兄と共に潔く腹をかき切って絶命したのだ。

宗治の辞世の句には、最期まで武士として誇り高く振る舞った、彼の覚悟がありありと表れている。

後世の人々に感銘を与える「辞世の句」

画像:備中高松城本丸跡にある清水宗治首塚 wiki c Maechan0360

今回紹介した武将の辞世の句以外にも、後世の人々にまで大きな感銘を与える辞世の句が多く遺されている。

1人1人の命を何より大切に考えることを善とする現代に生きる人々と、命よりも名誉を重んじる戦国武将の「生」の捉え方はきっと異なるはずだが、何故か現代人の心をも震わせるのだ。

人間誰しもいつかは死ぬものだ。どう抗おうと避けられない「死」という事象を受け入れようとする心の根底にあるものは、実はいつの時代でもあまり変わらないのかもしれない。

あなたの心を打つ辞世は、誰が遺した言葉だろうか。

参考文献
河合 敦 (著)『戦国武将臨終図巻
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部

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